宮崎駿 「風立ちぬ」

宮崎駿らしさにあふれた作品。十一作目にして、きれいさっぱり微塵も宮沢賢治を感じさせない作品。もはや匂いさえない。風が吹くとき木々はざわめき枝を震わす。時代の風が吹くとき人の心もまた不安に震える。風や煙という、きわめて使い古され、かつ、オーソドックスな演出道具を使った作品。そのためか、作品のメッセージは明瞭にして明確。

  「生きねば。(風が吹くときも、そよぐときも)」

果たして、そうだろうか?


二郎と菜緒子

出会いは、列車の中。三等車のデッキに二郎。二等車のデッキに菜緒子。風に飛ばされた二郎の帽子を菜緒子が捕まえる。直後、関東大震災。大正十二年九月一日。二郎は、上野広小路の菜穂子の自宅まで菜穂子たちの被災を知らせに走る。後日、二郎が菜穂子の自宅を訪ねたときには、菜穂子の屋敷はすでに焼失していた。

二年後。二郎の計算尺が返却される。そのとき菜穂子は二郎に会わずに帰る。

軽井沢ホテル。丘の上のパラソル。その下に菜緒子。風に飛ばされたパラソルを二郎が捕まえる。丘の上の菜緒子を訪ねる二郎。泉のそばに立つ菜緒子。二郎が来てくれるよう泉に願を掛けていたと言う。激しい雨。雨漏りがするパラソルの下。ホテルに向かう二人。

菜緒子発熱。二郎が飛ばした紙飛行機が菜緒子がいるベランダに落ちる。後日、少し大きめの紙飛行機をゴムで菜緒子の下に飛ばそうとする。偶然か意識的なのかという違い。紙飛行機の構造と大きさの違いは二郎の中の菜緒子への想いの濃淡の違い。恋に時間は関係ないというが、それでも醸成されるには、いくばくかの時間は必要だろう、という主張。

婚約。黒川家離れに潜伏中の二郎に「ナオコカツケツ チチ」の電報。大急ぎで東京に向かう二郎。庭から菜緒子の部屋へ。あわただしくベッドの上で抱き合う二人。最終列車で名古屋に戻る二郎。菜緒子は高原病院へ。病気を直したいからだという。

高原病院の菜緒子の元に二郎からの手紙。菜緒子は身一つで名古屋に。二人は黒川家の離れに落ち着く。菜緒子の枕頭で持ち帰った仕事をする二郎、菜穂子とは手をつないでいる。タバコを吸いに行くために手を離しでいいかと菜穂子に尋る二郎。菜緒子は、否、ここで吸えと答える。おや、と思うシーン。ここに、これまですべての宮崎駿の劇場用アニメ作品に通低するテーマが隠されている。

名古屋にやってきたときと同様。身一つで高原病院に帰る菜緒子。思い出は“美しい姿のままで”


黒川と黒川夫人

空母デッキ上の黒川。目前でブローした飛行機のエンジンオイルをぬぐった顔がタヌキ。夫人はというと、つり目のキツネ顔、キツネの嫁入り、ちょうちんの家紋、タヌキの夫とキツネの嫁。異種族同士の夫婦、あるいは敵(かたき)同士の夫婦の意味か。

少し掘り下げてみよう。小田原ちょうちんのミツウロコは北条の家紋。歴史上、北条の滅亡は2回。新田義貞の鎌倉攻めと秀吉の小田原攻め。ならばタヌキとは誰か。タヌキとあだ名された歴史上の人物の代表格は徳川家康徳川家康岡崎城の生まれ。現代の愛知県岡崎市三菱重工企業城下町。作品中の三菱名古屋航空製作所もそこ。とすると、黒川は愛知県岡崎市出身で、夫人は静岡県小田原市出身か。黒川は出身地から離れていないようだから。二人は、駆け落ちではなさそう。しかし、敵同士の夫婦だとするとお見合いという線もないはず。

黒川は、結婚に妙にこだわる。離れに住むのは構わない。しかし、男女が一緒に暮らす以上、婚姻が前提だと。恋は障害があったほうが燃える。とすると、黒川夫人は押しかけ女房か。身一つでやってきた夫人に黒川は、紋きり口調で、二郎たちに言ったのと同じようなセリフを言ったのだろうか。

  「住むのは構わないが、結婚していない男女が一緒に暮らすのは許されない」

二郎と菜緒子に言ったセリフは、かつて黒川が黒川夫人に言った黒川流のプロポーズのセリフだったと考えていいのだろうか。うーん、なんとなく似つかわしくない。それはそれとして、もう一つ疑問なのは、菜緒子という結核患者を自宅に住まわせることについて、黒川夫婦に一切の躊躇がなかったように見えたこと。そこが黒川夫妻のなれそめよりも大きな疑問。

なにか、ヒントがあるだろうか。そういえば“離れ”と言っていた。誰を住まわせるための離れだったのだろう。無理がないところでは肉親の範囲か。たとえば、その肉親が結核患者であったなら、その時点で、黒川夫人はもう黒川に嫁していたのだろうか。結核患者の菜穂子を即座に受け入れたところから類推すると、黒川夫人は、結核患者を世話するにあたって、それなりの経験を持っていると考えてもいいはず。

二郎妹が医師として菜穂子の診察に通っている。であれば、黒川夫人は看護婦などではなさそう。黒川夫人は、職業としてではなく、他人の家で他人の結核患者の世話をした経験がある、と仮定するとどうだろう。離れの結核患者は、黒川夫人にとって家族同然の人物であったはず。ならば、同性の親友か。さらに黒川夫人と同年令と仮定すると、離れの結核患者というのは黒川の“妹”。そう考えると辻褄が合う。

それほど前のことではなさそうだ。黒川妹が結核で床につく。黒川は仕事で多忙。どう考えても世話が行き届きそうもない。小田原からでは遠すぎて通うに通えない。夫人は黒川に住み込みで親友の世話をさせてほしいと懇願する。黒川は言う

 「住むのは構わないが、結婚していない男女が一緒に暮らすのは許されない」

黒川としてはぶっきらぼうに辞退しただけのつもりだったのかもしれない。が、夫人は飛びつく。黒川夫人の実家からはさぞや反対されたことだろう。

いやいや、そういうエピソードかどうかはわからない。だいぶ作ってしまった。勝手な想像だ。それでも、黒川夫婦は、おそらく結核患者との同居を体験済みという設定なのだろう。菜穂子を住まわせることで結核が伝染るかもしれないと考えずに、すでに伝染っているかもしれないと考える。そして、結核患者の世話に関しても身についた知識・経験があるという設定なのだろう。


飛行機と風

飛行機は、翼に大気の揚力を受けて飛行する。だから、必然的に風に立つことになる。本作では、“風”は動乱の“時代”のメタファであることも明白。生きるということは時代の風を受けて生きるということ。ただし、紙飛行機は別の意味。あれは、二郎の菜緒子へのごくごく個人的な想いと躊躇と動揺と濃淡を表している。


蒸気機関車の排煙と喫煙習慣

ちょっと前まで、サスペンスドラマの刑事はタバコを吸うことが当たり前だった。これは、演出によるもの。刑事たちは社会正義の名のもとに捜査を行い犯人を捕縛する。同時に、彼らは、警察内部では上役の勝手な思惑や意向や政治に振り回される。現場の刑事たちは、階級的には例外なく下っ端。警部補、巡査部長、巡査長、巡査。外向きには公権力を我が物のように振るっているが、内向きには警察組織の末端として組織への忠誠と従順を強いられている。彼らは必ずしも社会正義の体現者ではない。ただ単に、組織に命ずるまま行動し逆らうことは許されないだけなのだ。代わりはいくらでもいる。そのような刑事たちが身の内にたまった毒を吐き出す行為が喫煙なのだ。

風立ちぬ」の蒸気機関車の排煙も喫煙習慣も同様のメタファを持つ。排煙の場合は時代の持つおおいなる毒。排煙の色も白から黒へと変化してゆく。時代がより重大な事態に移行していることを暗に指し示している。戦前にかけて直接税や間接税、はては郵便貯金や簡易保険、国民年金制度ももっぱら軍費を捻出するために次々に創設されていった。庶民の重税感たるや想像の埒外、厳しい時代である。貧困、病気、失業、天災、強権、身分。人権などはもとよりありはしない。

明治維新より続く軍事立国と軍国主義。対外的に戦争状態になかった時期はない。国産の技術というものは皆無の時代。アキレスと亀が引用された。有名なパラドックスだが、速度(単位時間当たり移動距離、時間は連続数)の概念を容れるとアキレスは亀に追いつき追い越せる。重要なのは速度なのだ。どの時代かに関わらず、最先端の技術者たちは常に疾駆している。実は、この条件は現代でも同じ。現代の社会が止まっているように見えるは、政治や経営が走っていない状態に慣れてしまっているからだ。技術開発や技術者育成には膨大が資金と時間が必要。バブル崩壊の信用収縮は、官庁や企業を技術開発や育成よりもコスト削減に走らせた。

話を作品に戻そう。堀越二郎たち技術者の思いは、高性能の機体を開発することに注がれる。しかし、その高性能の機体は、爆弾や機関銃を装備するまぎれもない兵器。だからといって、二郎たちが兵器開発に消極的であったかというとそれは違う。高性能の兵器を開発することは二郎達にとっては使命。高性能の兵器を持たなければ、より高性能の兵器を持つ列強に蹂躙される。人殺しや破壊のための道具であることを二郎たちは十分に認識している。兵器を開発している以上、その姿勢は反戦的ではありえない。かといって好戦的なわけでもない。議論して結論がでる問題ではない。身の内には良心との相克がある。そのことを表現しているのが“喫煙”。吐き出すタバコの煙は身の内にたまった相克の毒のメタファを持つ。


菜緒子がここで吸えという意味

タバコの伏流煙は、非喫煙者にとってまぎれもなく毒だ。健康に悪影響しかない。ましてや、菜緒子は肺結核患者。菜緒子が床についている部屋で喫煙するというエピソードは尋常ではない。というより、はっきり異常だ。

ドラマの作劇においては、おかしい普通でないと感じるシーンに重要な意味が隠されていることが往々にしてある。悪癖、悪習と目をそらすよりは、その行為に隠されているかもしれないドラマの意味を探るべきだ。

二郎はタバコを吸う。とうぜん、タバコの煙を吐かねばならない。そして、「風立ちぬ」でのタバコを吸う行為は身の内の相克という毒を吐き出す行為。そうすると、菜緒子の行為は、二郎が吐き出した毒を吸う行為。つまり、菜緒子は、二郎が吐き出した毒を吸い自らの肺で漉しとっていることになる。宮崎監督の劇場用アニメ作品に通底しているのは<浄化>のイメージ。毒を漉しとる行為。ナウシカでいえば腐海のイメージそのものではないか。

余談だが、浄化に失敗したエピソードを持つ作品もある。「カリオストロの城」がそれ。クラリスの存在そのものが浄化のメタファ。もしも、ルパンがラストでクラリスを抱きしめていたら・・・、ルパンは泥棒家業から足を洗って(浄化)いたかもしれない。


スピリチュアル

風立ちぬ」には、スピリチュアルな成分はないように思えるが、ただ、一か所、気になるシーンがある。泉のそばで二郎を待っているシーン。不思議なのは二郎がやってきたことについて菜緒子が泉にお礼をいったこと。二人がホテルに帰ろうとすると突然の豪雨。いきなり晴れて虹が見える。なんと解釈してよいか受け止めてよいか即座にはわからなかった。

またもや、勝手な想像ではあるのだが、イザナギイザナミ神話の黄泉国(よみの国)と黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のエピソードを思い出した。イザナギイザナミを連れ帰ることに失敗した。二郎はパラソルに同傘していたため、振り返らずにすんだのかもしれない。いや、それ以前に、菜緒子は泉にもう一つ願いごとをしていたかもしれない。

  「かなうなら、時を止めてほしい。病み疲れた姿ではなくて若く美しいままで」

あわただしく帰ってゆく謎のドイツ人カストルプ。ホテルでは四六時中、新聞をよんでいただけのようだったが、二郎と菜緒子が婚約した直後に自ら自動車を運転して帰ってゆく。これが最後のドイツタバコだと二郎に話しかけるシーンも挙動不審だった。あのときカストルプは菜緒子の父を避けていていたようにも見える。二郎と菜緒子で婚約を決めた後は、自然に菜穂子父と同じテーブルについている。最後はドイツ語の歌の合唱だ。

参考:ドイツ文学散歩「ただ一度だけ」(Das gibt's nur einmal ) http://flaneur.web.fc2.com/011.html

パンフレットの野村萬斎のインタビューに、“宮崎監督から「カプローニは二郎にとって“メフィストフェレス”だ」という説明を聞いた”とある。であれば、カストルプも、奈緒子にとってのメフィストだった、ということにならないだろうか。そういえば、ゲーテもドイツ人だった。「時よ止まれ、君は美しい」はゲーテファウスト」のメフィストの有名なセリフ。

さらにいえば、カストルプとカプローニは同一存在。奈緒子の魂が、カストルプではなくカプローニと一緒に二郎を待っていたたのはその証(あかし)だろう。奈緒子と二郎の婚約の前後で奈緒子父への態度が違ったのもそのため。実際には“契約”はもう少し先かもしれない。おそらく、菜穂子が高原病院で二郎からの手紙を受取り名古屋に向かうそのときだったろう。いや、やはり、契約は軽井沢でなされ、契約の履行が名古屋駅で二郎に一緒に住もうと言われた瞬間になされた、と解釈するのが妥当だろう。


美しい飛行機、美しい菜穂子

作品中で“美しい”という形容詞が連呼される。美しいという言葉は、かなり観察者の嗜好・教養による主観的・観念的な部分が大きい。作品を見ている観客のひとりとしては、そうかと受け入れるしかないのだが、メフィストが出てくるとなると話は違う。

ここは、メフィストの有名なセリフ「時よ止まれ、」の発呼が隠されていると解釈するべきではないだろうか。美しいと連呼するたびに、音にはならないが呪文のように「時よとまれ、」が発声されているイメージに気づく。激動の時代。作品中の時代は誰にも止めようもなく動いている。しかし、二郎と菜緒子の時間はどうだろうか。あのとき止まっていたのではないか。菜緒子は美しい。だから時よ止まれと願う。菜緒子が幸福な時間。菜穂子が切望した時間。メフィストは菜穂子との魂の契約を結ぶ。

堀越二郎が主任設計者を務めた九試単は美しいと形容される飛行機。優美な曲線のフルメタルの機体、極限までの追求した軽快さ。世界に並び立てる最高速度。九試単は美しい。ようやく試験飛行に飛び立とうとしている。飛べ、その姿をいつまでも眺めていたい。技術者として幸福な時間。時よ止まれ、と切望する。メフィストは二郎とも魂の契約を結ぶ。

新たな願い。同時刻、もうひとつの止まっていた幸せだった時間が、時を刻みだす。メフィストには同時にふたつの幸せな時間を止めておくことはできないのかもしれない。さらに、時間を止められるのは、一人につき、ただ一度だけ(Das gibt's nur einmal ) 。


堀とはhollyではないか

堀越二郎と堀辰男。共通した“堀”の字が気にかかる。堀辰男の作品には何の興味もないが、堀辰男に「聖家族」という小品があり、その内容・設定において、宮崎作品「風立ぬに」の設定と似通ったところ部分がある。登場人物は、{河野扁理=堀越二郎、細木絹子=菜緒子、細木夫人=菜緒子父、九鬼=メフィスト}といったところ。ストーリーは、扁理と細木夫人の軽井沢でのと出会いと九鬼の告別式で再開。扁理は何度も夢の中で死んだ九鬼と会話をする。扁理は細木家に通うようになり絹子に出会い恋をする、絹子も扁理に恋心をいだく。要するに、若い恋人たちの出会いと恋、軽井沢、夢の中の世界、というキーワード。テーマ的なフレーズは、“死を見つめることによって生がようやくわかる”

と書いても、これ以上、掘り下げようもない。そもそも「聖家族」とう作品自体に何の魅力もない。行き当たりばったりに原稿のマス目を埋めただけの構想倒れの作品に思える。宮崎駿風立ちぬ」は、ここからスタートしたのかとも感じるが、これはさすがに読みすぎかなとも思う。


総評

「生きねば」というメッセージは作品を通じて明瞭かつ明確に伝わった。しかし、隠しメッセージとして「時よ止まれ」があることに気づく。美しい時間、幸福な時間。いったい誰の時間のことを言っているのだろう。終末までの残された時間を感じるとき、幸福な時間であったと感じるとき、その時間が再び時を刻みはじめたと感じるとき、20歳代であろうが70歳代であろうが“余命”を感じてしまうのではないだろうか。

十一作目の劇場用アニメ作品「風立ちぬ」は期待にそぐわぬ素晴らしい作品だった。だから、余計な詮索でしかないのは解っているが、それだけに宮崎監督の余命はあとどれほど残っているのだろうかと考えてしまう。

  「生きねば。(時間は、また時を刻みはじめた)」

 

 

三と十の暗合 目次

 

crayon-shinji.hateblo.jp

 crayon-shinji.hateblo.jp