「千と千尋の神隠し」の中の宮澤賢治作品

千と千尋の神隠し」の大きな特徴として、「銀河鉄道の夜」、「双子の星」、「どんぐりと山猫」のイメージやらエピソードやらモチーフやらが引用されて盛り込まれています。非常に宮澤賢治を強く感じる作品になっています。それぞれを検討してみます。

1.「銀河鉄道の夜」のイメージ

a. 動力源が不明の電車(でも、"電”車だといってます)

「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。(「銀河鉄道の夜」)

b. 夜、電車の窓の外を流れるネオンサイン

野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。(「銀河鉄道の夜」)

c. この世界のものを三日も食べていれば匂いは消える

苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。(「銀河鉄道の夜」)

d. 行きだけの電車

ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。(「銀河鉄道の夜」)
※ただし、釜爺が、昔は帰りの電車もあったと言っていました。昔は両方向で、今は片方向。これは「銀河鉄道の夜」からは離れています。宮崎監督独特の、人間と自然との関係、いわゆるエコロジー思想からでしょうか。

e. 北西へ向かう電車

二枚貝説の銀河鉄道は、イタリアを経って北西のイギリスに向かいます。海原電車も、橋、昇る太陽が作る影、夕日の沈む方向から推測すると、北西に向かって走ったたことになります。しかし、その後は、まるで「どんぐりと山猫」の馬車のようにさまざまな方向に走っています。


2.「双子の星」のエピソード

a. 海蛇の王

釜爺の伸縮自在な腕がヒントです。棚の薬を取るときも、手の先にあたかも眼が付いているかのようでした。それとススワタリ。コンペイトウをもらってうれしそうでした。両手にコンペイトウを抱えて顔(全身顔ですが)の横で星に見立ててキラキラさせているみたいでした。

「双子の星」の第二部。双子の星はほうき星にだまされて、天の穴から海の底に落とされます。海の底にはヒトデがいて、ヒトデたちは皆かつては空の星であり、悪事をはたらいて空を追放された身。そんな海の底で双子の星はクジラに襲われそうになりますが、その双子の星を救ったのが銀色の光をはなつ小さな海蛇。小さな海蛇は双子の星を海蛇の王(白い長い髭をはやした老人)のところへといざない、海蛇の王は竜巻にのせて双子の星を空にかえします。

ここで、双子の星=千尋、ヒトデ=ススワタリ、銀色の光をはなつ小さな海蛇=ハク、海蛇の王=釜爺、竜巻=リンと置き換えると、冒頭のハクにたすけられて地の底にある釜爺のところから湯婆婆の部屋がある最上階までゆくエピソードと重なります。

さらに、ヒトデ=ススワタリを悪事をはたらいて空を追放になった罪人とすると、ススワタリたちがせっせと火にくべる石炭、重くて黒い物とは、人の“罪”だと思います。罪を燃やす浄化の火は浄火ですので、ススワタリたちはせっせと浄化を繰り返していると解釈することができます。

いったん浄化という暗喩を見つけてしまえば、あとはそれ以外の浄化を見つける単純作業です。そして、なぜ、それらの浄化をおこなうのか、浄化するとどうなるのか。それは「生きる力」と結びついてゆくのだろうか。そこまで考えると、この作品のストーリーとテーマがするりと解けました。

さて、釜爺が海蛇とすると、あの一本一本の腕のそれぞれが自在に伸び縮みする感覚がぴたりとはまります。ただし、釜爺=海蛇としてしまうとハク=海蛇としなければなりません。逆に、ハク=龍神ですので、釜爺=龍神、あるいは龍神の複合体とするほうがよさそうです。

そう考えると、釜爺が調合した薬湯はいってみれば神々を浄化するためのものなわけですから、釜爺の行為はハクのおまじないとも、河の神の苦団子の効能とも重なります。それに苦団子を苦団子だと看破したのは釜爺です。あれが苦団子だと認知できるのはあの不思議世界の常識だったからでしょうか、それとも、河の神々だけしか知りえない秘密だったからでしょうか。わたしは後者だと思います。

ところで、釜爺が食べていたのは天丼のようでした。“丼”という字に注目してみてください。“丼”は“井”と“・”に分解できます。すなわち、“天丼”は“天井”+“・”となり“天上の星”のアナグラムになっています。天丼はそのメタファにおいてススワタリたちのコンペイトウと同義になります。この後、千尋は湯婆婆の所へ向かうのですが、やがて、ハクと共に天井(天上)から落ちてくることになります。


b. 神々の食物

釜爺とススワタリたちは、天上の星のメタファを持つ食べ物を食す。しかし、質素です。リンや千尋たち接客係の食べ物もまた質素です。盛り切り飯や肉まんの類。しかし、神々には豪華な食材や色とりどりな料理が用意されています。接客係たちがつまみ食いでもしそうなものですが、そのような形跡はありません。なぜでしょうか。あんなに美味しそうなのに。

  湯婆婆「お客様の食べ物を豚のように食い散らして、当然のむくいさ」
      (中略)子豚にしてやろう、石炭という手もあるで」

カオナシがヒントだと思います。カオナシは神々のご馳走をたらふく食べ巨大化する。しかし、すべて未消化のまま吐き出します。カオナシは神々の食べ物を消化できないのだと思います。しかも、吐き出した食べ物はどろどろの汚物状でした。あの汚物状のどろどろが神々の食べ物の正体なのではないでしょうか。

では、神々の食べ物とは何でしょう。人間が食べると豚になる物です。別な側面として、人間は石炭にもなると湯婆婆が言ってます。石炭は“罪”のメタファでした。では、豚になる食べ物でその正体が汚物状のものとはなんでしょうか。“欲”だと思います。人の欲には際限がないものです。いくらでも食べても食べても食べ散らかしても食べる。神々の食べ物のメタファは“欲”だと思います。

油屋に来る神々は、人間の罪を燃やし人間の欲を糧とする。言い換えると罪を浄化し欲を消化する。それが神々の愉悦であり営みなのだろうと思います。



3.「どんぐりと山猫」のモチーフ

一郎という男の子が主人公で、ハガキで山猫のもとに呼び出され、どんぐり達の係争の調停役をやらされるのですが、じつは答えにならない賢しげな答えで一同をしらけさせただけで、一郎を帰したい山猫がお礼にと申し出た金のどんぐり一升と塩鮭の頭の二者択一で、一郎は金のどんぐりを選び、帰ってみたら金のどんぐりが普通のどんぐりになっていたというお話です。

a. 他人を見下さないという話

一郎は山猫の使用人のような馬車別当をおそらく外見で判断したうえのことでしょうが、さんざ見下す態度をとっていました。しかし、千尋は違います。あのクサレ神に対しても誠意をもって応対します。千尋には、一郎がしたように他を見下すとか抜け目なくとか賢しげな振る舞いとかは一切ありませんでした。

b. 真贋を見抜く話

山猫が、一郎に渡す金のどんぐりをかき集める際、足らなければ金メッキのどんぐりでもいいからと乱暴なことを一郎の目の前で言っています。どうせ里に下りれば普通のどんぐりになってしまう。つまり、山猫が、一郎は真贋の区別のつかない人間だと見抜いているからにほかなりません。このことは、湯婆婆と油屋の従業員がカオナシの出す金の真贋を見抜けなかった話に重なります。ただし、苦団子を食べる前の千尋カオナシの出した薬湯の札を使っています。

c. 係争の内容

どんぐり達の係争の内容とは、頭がとがったどんぐりが偉いか、頭のまるいどんぐりが偉いかとかいうたぐいのもの。この問いに一郎は、「いちばんばかでめちゃくちゃでまるでなっていないのがいちばんえらい。そう教わった」と答えます。つまり、自分で見つけた答えではなく他人の答えを鵜呑みにしてさも賢しげにふるまってしまったわけです。これは、自分自身で行動し、自分自身で答えを出した千尋とやはり正反対です。

d. 呼び出され、試される話

千と千尋の神隠し」を千尋が不思議世界に迷い込んだ話ではなく、呼び出され試される物語であると考えればどうなるでしょう。

とりあえず両親は豚にされることで、千尋は不思議世界の中でひとりになります。ひとりになった千尋の行動は、ハク、釜爺、リン、湯婆婆、それぞれのいいつけに素直に従ったものになっています。

しかし、苦団子を食べたあとの千尋は一変します。カオナシが出したものは受け取らず、ハクを救い、坊を仲間とし、凶暴化したカオナシを救い、銭婆に髪留めをもらい、ハクの正体を思い出し、最後の豚めくりに勝ちをおさめ、両親と一緒に元の世界に帰ります。

この物語を千尋が試される物語ととらえた場合、千尋は海原電車に乗った時点で試練に合格していたのではないでしょうか。髪留めはトンネルを抜けた後も変わらずに輝いていました。変わらなかったというたったそれだけの事実でも、一郎の変わってしまった金のどんぐりとは大違いです。あの髪留めは、ある種の合格証のようなものだったのではないのでしょうか。

ある物語Aとその裏返しの物語Bとでは、設定が裏返しにされただけで物語はテーマ(主題)という点ではまったく同一の物語になります。すなわち「千と千尋の神隠し」を「どんぐりと山猫」を裏返しにした物語ととらえるとかなりの類似性を見いだすことができます。

・・・つづく

 

 

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