とめはね!、西行、二枚貝説

とめはね!

週刊スピリッツ隔週連載の河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部」、高校書道部の話です。ウンチク物のマンガはだいたい面白いのですが、この作品は書道がモチーフになっていますので想定読者層の広さから、ちょっと毛色が違った作品になっています。「帯をギュッとね!」の登場人物もそっと出てきたり、ヒロインがいまや柔道のオリンピック強化選手に選ばれるかどうかというレベルで体育会系の味も持ち、書道のライバルとの競争の方にも身が入りつつあるという文化会系勝負物、というほどでもなく、恋愛物としてはヒロインもお相手もいまだ微妙で・・・とストーリーが進んでいく中、読者もだんだんと書道の深さと周辺知識に引きずり込まれてくる。そういう作品です。

その中の、「とめはねっ!」第9巻に、作品中の書の作品の題材として出てきた西行の和歌に、わたしの琴線が反応しました。

おもかげに君の姿を見つるよりにはかに月のくもりぬるかな

「とめはね!」の読み下しによると「月の中に君の姿が浮かんだら、たちまち涙で月がくもってってしまった」の意味とのこと。涙で月ならぬ星が曇るモチーフなら「銀河鉄道の夜」でも出てきます。

    “琴の星は茸(きのこ)のように足を延ばしました”

ひょっとすると、「琴の星・・・」は「おもかげに・・・」の本歌取りなのではないか、という着想が浮かんできました。これまで、宮沢賢治の和歌を含む作品について、西行の影響を受けたという指摘は読んだことがありません。「宮沢賢治歌集」を読み返してみても西行の影響を受けていそうな歌は見受けられません。もっとも、「宮沢賢治歌集」は大正九年までの和歌を集めた歌集ゆえに、「銀河鉄道の夜」「二十六夜」「やまなし」三部作成立時期である大正十一年八月以降とは若干の時間のずれがあり、そのころ賢治はすでに童話と詩作のみで和歌の作成は中止していたようです。

しかし、「琴の星・・・」と「おもかげに・・・」だけでは、いくらなんでも弱過ぎます。こじつけだとか気のせいだと冷たく言われても言い返す言葉がありません。他にはないのだろうかと、西行の資料をあたることにしました。


山家集をあたる

しかし、一般書店には西行関連の資料がほとんど、というよりまったく皆無です。ありません。山家集ですらどこにも売っていません。岩波文庫版はすでに絶版になっています。西行は、もはや現代人には人気が無いようです。おそらく、古文のリテラシーがないと作品を読み下せないからだと思います。

「とめはね!」には西行の歌に続けて俵万智の和歌を題材とした作品も出てきます。俵万智の作品は漢字かな交じり文の読みやすさの例として出てくるのですが、同時に俵万智の和歌が現代文・現代語であることが相乗効果となって、さらに読みやすくなっているのだと思います。ちなみに、俵万智氏は神奈川県立橋本高校の教師だったころ書道同好会の顧問をされていたそうです。町田市文学館で俵万智展を見に行ったったときに知りました。

山家集は図書館に置いてありましたが、わたしにしても古文のリテラシーをさほど持ち合わせているわけではないというか、実際にはほとんど持ちあわせていないので、山家集をそのまま読み下すのはかなりの苦労です。そこで、西行を題材とした作家論から攻めることにしました。2冊目に読んだ「西行白洲正子 新潮文庫 p.243に次の歌を見つけました。

    下り立ちて浦田に拾ふ海人の子はつみよりつみを習ふなりけり

西行が四国に渡るために岡山県のとある海岸に差し掛かったところ、子供たちが”つみ”という貝を採っていたのを見て、”つみ”という貝の名前から”罪”を連想し、それとは意識せず子どもたちが殺生の罪を犯している姿に深い感懐を覚えた、というところでしょうか。

この歌の、貝殺し、殺生罪、子供、というキーワードは、「二十六夜」の梟のお経の中に出てくるフクロウが殺生の罪を犯すエピソードの直接的なモチーフになっています。

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なんぢら審(つまびら)かに諸(もろもろ)の悪業(あくごふ)を作る。或(あるい)は夜陰を以て、小禽(せうきん)の家に至る。時に小禽、既(すで)に終日日光に浴し、歌唄(かばい)跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍して之を握(つか)む。利爪(りさう)深くその身に入り、諸(もろもろ)の小禽(せうきん)、痛苦又声を発するなし。則ち之を裂きて擅(ほしいまま)に食(たんじき)す。或は沼田(せうでん)に至り、螺蛤(らかふ)を啄(ついば)む。螺蛤軟泥中にあり、心柔(にうなん)にして、唯温水を憶(おも)ふ。時に俄にはかに身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱(もんらん)声を絶す。汝等之を食(たんじき)するに、又懺悔(ざんげ)の念あることなし。
 斯(か)くの如(ごと)きの諸(もろもろ)の悪業(あくごふ)、挙げて数ふるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂(つひ)に竟(をは)ることなし。昼は則ち日光を懼(おそ)れ又人及(および)諸(もろもろ)の強鳥を恐る。心暫(しばら)くも安らかなるなし、一度(ひとたび)梟身(けうしん)を尽して、又新あらたに梟身を得(う)、審(つまびらか)に諸(もろもろ)の苦患(くげん)を被(かうむ)りて、又尽(つく)ることなし。(「二十六夜ちくま文庫
注: 螺(ら):巻貝、蛤(こう):二枚貝


訳:

お前たちフクロウは様々な(前世からの)悪業を重ねている。あるときは、夜陰に乗じて小鳥の巣に行く。小鳥は日がな一日、陽の光を浴び、さえずり、飛び跳ね、疲れきってただただ甘い睡りの中にいる。お前たちフクロウは小鳥に飛びかかり掴まえる。お前たちの鋭い爪が小鳥の身に深々と食い込む。ほとんどの小鳥は苦痛のあまり声をだすこともできない。(お前たちフクロウは)捕まえた小鳥たちをやすやすと引き裂いて食べてしまう。また、沼地や田に行き、巻貝や二枚貝をついばむ。巻貝や二枚貝は柔かな泥の中で水の温かみのみを感じている。突然、巻貝や二枚貝は空中へと放り出され即座に身を食い破られる。苦しみのあまり声を上げることもできない。(お前たちフクロウは)巻貝や二枚貝を喰らっても罪悪感を感じることもない。
このような様々な悪業は他にも数えきれない。悪業を重ねることで、さらなる悪業を積み重ねることになる。悪業の積み重ねは延々と続き終わるということがない。(お前たちフクロウは)昼は日光を避け、人や強い鳥を恐れる。すこしも心が安らぐときがない。一度、フクロウという身を終えても、また新たにフクロウに生まれ変わる。様々な苦しみや患いが後から後から押し寄せ途切れるということがない。
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貝殺しは「やまなし」の子ガニ達のクラムボン殺の話に重なるモチーフであり、「銀河鉄道の夜」では鳥とラッコの暗示的な殺生罪のモチーフになっています。したがって、西行「下り立ちて・・・」に続く数首は、賢治「琴の星・・・」が西行「おもかげに・・・」の本歌取りではないかという着想の裏付けになりえるはずです。さらに、山家集を読み進んでゆくと、つみ(巻貝)やハマグリ(二枚貝)だけでなくサザエやアワビも出てきます。大漁です。賢治作品でサザエやアワビを捕食する動物は、「銀河鉄道の夜」に出てくるラッコだけです。以下、関連すると思われる部分を岩波文庫版「山家集」p.114~116より引用します。

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本文

備前国に小島と申す島に渡りたりけるに、あみと申すものをとるところは、おのおのわれわれしめて、ながきをに袋をつけてたてわたすなり。そのさをのたてはじめをば、一のさをとぞ名付けたる。なかに年高きあま人のたて初むるなり。たつるとて申すなる詞きき侍りしこそ、涙こぼれて、申すばかりなく覚えてよみける

たて初むるあみとる浦の初さをはつみの中にもすぐれたるかな

解釈

岡山県の小島という島に渡ったところ、あみという海産物をとっていた、海女たちがそれぞれに長い緒に袋をつけて立て渡す。その立て始めの竿を一の竿といい最年長の海女から立て始めるのであるが“たつる”という掛け声に、(本来なら神仏に請願を”立てる”という用法の言葉なのに、殺生を犯す掛け声にとして発声していたため)おもわず涙こぼれて言葉もないほど驚いて詠んだ。

(本来は神仏への願を立てるという使い方であるのに)、海のあみを採る竿の立て始めに“たつる”という言葉を使っている。これではあみを採ることで犯すことになる殺生罪をよりいっそう重くしてしまうことになるのではないか。

本文

ひゝしぶかわと申す方へまかりて、四国の方へ渡らんとしけるに、風あしくて程へけり。しぶかわのうらたきと申す処に、幼きものどもの、あまた物を拾いけるを問ひければ、つみと申すもの拾ふなりと申しけるを聞きて

おりたちてうらたに拾ふ海人の子はつみよりつみを習ふなりけり

解釈

比日渋川という所に着いて、四国に渡ろうとしたが、風の具合が悪いため滞在していた。渋川の浦田というところで、幼児たちがさかんに何かを拾っていたので何かと問うたところ、つみ(貝)というものを拾っていると言うのを聞いて

(海女の子として降り立つ=転生した)浦田にいた幼児たちは、つみ(巻貝の類)を拾うことで、(再度、)生業としてつみ(殺生罪)を犯す所業を習っている。

本文

まなべと申す島に、京よりあき人どものくだりて、ようようのつみのものどもあきなひて、又しはくの島に渡りてあきなはんずるよりもうしけるを聞きて

まなべよりよりしはくへ通ふあき人はつみをかひにて渡るなりけり

解釈

眞鍋という島には、京から商人たちがやってきてさまざまな積荷を商っており、また、塩飽の島に渡って商いをすると言っていたのを聞いて

(習うを受けて)眞鍋(学べ)から塩飽(四悪)へ通う商人(悪き人)は積み(罪)荷を櫂(甲斐、生業)として渡ることになるのだ。(論語でいう四悪に通ずる殺生を学んだ悪人は、殺生罪という重荷を積み重ねながら生きていくのだ)


本文

串にさしたる物をあきないひけるを、何ぞと問ひければ、はまぐりを干してはべるなりと申しけるを聞きて

同じくはかきをぞさして干しもすべきはまぐりよりは名もたよりあり


解釈

串に刺した物が売っていたので何かと尋ねたところ、ハマグリを干したものでございます、と答えたので

どうせなら牡蠣(柿)を刺し干して売ればいいものを、蛤(栗)よりは聞こえがいいではないか。(ハマグリと言われてしまえば即座に貝とわかってしまっておぞましい。カキと言われれば柿に聞こえるからまだましである)


本文

うしまどの迫門に、海士の出で入りて、さだえと申すものをとりて、船に入れ入れしけるを見て

さだえすむ迫門の岩つぼもとめて出いそぎし海人の気色なるかな

解釈

岡山県牛窓町の瀬戸で、海女が海に出たり入ったりしてはサザエを採って船にいれていたのを見て

瀬戸の岩のくぼんだ所に棲むサザエを求めて海女が忙しそうに出たり入ったりしている。瀬戸=瀬戸際、生死の分かれ目なのかもしれないが、この歌の裏の意味は不明


本文

沖なる岩につきて、海士どもの鮑とりける所にて

岩のねにかたおもむきに波うきてあはびをかづく海人のむらぎみ

解釈

沖の岩の所で、海女の長(村君)が潜ってアワビを採っているところに居合わせて

岩の根に海女の長(村君)が潜ってアワビを採っている。”かたおもむき”は漁法か。同時に、万葉集由来の磯の鮑の片思いに掛けている。この歌の裏の意味も不明。
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いう語に代表されるように西行はもっぱら山に棲み山を歌う山の人であったということでもあるのだろう。ことさらに海の人が生業として貝を採る行為に殺生の罪を見いだしてしまうが面白い。これ以外に崇徳上皇の逝去の二年後、上皇の流刑跡に向かう往路で詠んだ歌六首。上皇が生きている内に訪うことができなかったという罪の意識が西行の心を覆っているのかもしれないが、「山家集」の山家と西行が”つみ”を歌いこんだ歌は、”地獄繪を見て”の一連の歌に出現するのみで、あとは宗教的な観念性の強い形式的な印象の歌三首に現れる。もっとも、地獄絵の歌は歌というよりも写実・叙述に近いように感じる。


  地獄繪をみて

  いろくづも網のひとめにかかりてぞ罪もなぎさへみちびかるべき(聞書集)
  重き罪にふかき底にぞしづまましわたす筏ののりなかりせば(聞書集)
  知られけり罪を心のつくるにて思ひかへさばさとるべしとは(聞書集)
  見るも憂しいかにかすべき我がこころかかる報いの罪やありける(聞書集)
  つみ人はしでの山辺のそまぎかなおののつるぎにみをわられつつ(聞書集)
  問ふとかや何ゆゑもゆるほむらぞと君をたき木のつみの火ぞかし(聞書集)

  他

  身につもることばの罪もあらはれて心すみぬるみかさねの瀧
  (”みかさね”とは身業、口業、意業の三業の罪。殺生の罪は身業に含まれる)
  何ごとも空しき法の心にて罪ある身とはつゆも思はず
  罪人のしぬる世もなく燃ゆる火のたきぎとならむことぞかなしき

このほか地獄絵の一連の歌の中に”みつなき人”という表現が出現する。後世の写し間違いという指摘もあるが、”みつ”→”つみの真逆”→”罪なし”と解釈すると”<つみなき>なき人”と二重否定の形式となり、その意味として”つみ人”となる。ただし、罪を犯していないことと罪を犯したことが可逆とは限らない。というよりも、いったん犯してしまった罪をそそぎきることなどできはしない。だから業なのである。人は罪を犯すことを避けて生きられない。”みつなき人”にそういう意味を見出してしまうのは、つい深読みしすぎてしまうわたしの悪いくせか。なお、みつせ川は三途の川のことである。”またわたりかかれる”の”また”というのは、何度も三途の川を渡っている事、つまり転生を繰り返している事を示している。

  みつせ川みつなき人はこころかな沈む瀬にまたわたりかかれる(聞書集)

 

消されたつながり

賢治は生前、「愛国婦人」大正十年九月号に「あまの川」という童謡を発表している。賢治の出郷は、大正十年一月二十三日~八月中旬であるから、おそらく、在京中に応募してしていたものと思われる。この「あまの川」という童謡が「銀河鉄道の夜」初期型二(2次稿)と「二十六夜」清書稿に現れるがいずれも、削除の印が付けられている。「愛国婦人」発表型では句読点やルビが追加されているが、これは賢治の手によるものではなかろうというのが新校本編者の指摘である。

   峩箍賄監擦量 初期型二」削除
  あまの川
  底のすなごも見ぃへるぞ
  かはらの石も見ぃへるぞ
  いつまでみても
  見えないものは水ばかり
  (新校本 第十巻 校異編 p.63)

  ◆崙鷭熟嗣襦彑興餽 削除
  あまの川
  岸のすなごも見ぃえるぞ
  底の小砂利も見ぃえるぞ
  いつまで見ても見えないものは水ばかり
  (新校本 第九巻 校異編 p.77)

  「愛国婦人」草稿
  あまの川
  底のすなごも見ぃへるぞ
  かはらの石も見ぃへるぞ
  いつまで見ても
  見えないものは水ばかり

  ぁ岼国婦人」発表型
  あまのがは
  岸の小砂利も見ぃへるぞ。
  底のすなごも見ぃへるぞ。
  いつまで見ても、
  見えないものは、水ばかり。

「あまの川」が記載されている部分は、資料『宮沢賢治銀河鉄道の夜」の現行のすべて』宮沢賢治記念館の原稿用紙の写真によると、現存紙葉番号58に相当する。1次稿は紙葉番号60から始まっているため、「あまの川」は、ちょうど、0次稿に相当する部分に記載されていることになる。2次稿は原稿用紙のマス目の中に筆記されており訂正箇所も少なく清書稿の体裁をなし、1次稿(未清書稿)では存在していない部分、つまり、0次稿に相当する部分に「あまの川」が存在していたと考えられる。


現存紙葉番号
01
・ 


11 2次稿 2次稿A 始




48     2次稿A 終
49     2次稿B 始




59 2次稿 2次稿B 終
60 1次稿 始め


現存紙葉番号14を除く、紙葉番号11~59が2次稿と言われており、2次稿の特徴をなしているのが「丸善特製 二」という原稿用紙が使われていることと、清書稿の体裁であるという二点である。また、原稿用紙そのものから成立は大正十二年秋以降とされている。さらに、使用インクに着目すると、2次稿は紙葉番号11~48のとじ穴なしブルーブラック・インク部分と、紙葉番号49~59のとじ穴あり青インク部分に分けられる。便宜上、紙葉番号11~48を2次稿A、紙葉番号49~59を2次稿Bとすると、「あまの川」が記載されている部分は2次稿Bになる。ちなみに1次稿も「丸善特製 二」を使っているが下書きの体裁になっているのが特徴である。

そして、「あまの川」の内容でいえば、 峩箍賄監擦量 初期型二」は「愛国婦人」草稿と同一。◆崙鷭熟嗣襦彑興餽討廊ぁ岼国婦人」発表型に類似している。これらのことから推敲過程を推測すると次のようになる。

  a. 「あまの川」 発表型                大正十年八月ごろ
  b. 「銀河鉄道の夜」 0次稿、 「あまの川」草稿ベース  大正十一年八月五日
  c. 照井謹二郎氏の獅子鼻のフクロウのエピソード    大正十一年八月十八日
  d. 「二十六夜」 初稿 、「あまの川」発表ベース
  e. 「やまなし」 初稿、和半紙
  f. 「やまなし」 発表                 大正十二年四月八日
  g. 「銀河鉄道の夜」0次稿清書=2次稿B        大正十二年秋以降
  h. 「二十六夜」清書、表紙つき「1020」原稿用紙(これは初稿であってもよい)
  i. 「銀河鉄道の夜」2次稿Bと「二十六夜」清書稿の「あまの川 」に削除印
  j. 「銀河鉄道の夜」1次稿未清書    (関東大震災)大正十二年九月一日以降

1次稿を書いてから2次稿Bを清書したならば、1次稿部分も清書されていてしかるべきである。しかし残されている1次稿は2次稿と同じ原稿用紙を使って下書きのみである。したがって、1次稿と2次稿Bの成立時期は逆転すると考えるのが妥当である。

なぜ、賢治は「あまの川」を削除したのだろうか。想像するしかないが、別々の作品に同じ童謡を入れ込むことがあからさますぎるように思えたのだろうか。結果、「銀河鉄道の夜」と「二十六夜」のつながりは、「二十六夜」の最後の一文にのみ残されることになる。

  “そして汽車の音がまた聞こえて来ました。“(「二十六夜」)

 

消された手がかり

江戸時代、松尾芭蕉西行に私淑していたことは有名であるし、明治末期から大正初期にかけての歌人たち、具体的には、若山牧水斎藤茂吉、他の方々の作品などに影響が見え隠れするという。

では、賢治は西行を読んでいたのだろうか。賢治の蔵書に「山家集」はあったのだろうか。賢治の没後、宮沢清六氏が残された蔵書のリストを作成していたが戦火で失われた。オリジナルは失われたが小倉豊文氏が書写したリストが残っている(※奥田博「宮沢賢治の読んだ本」)。そのリスト中にはことさら「山家集」の名は見受けられない。だだし、次の小倉豊文氏の指摘に救いがあるように思える。

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”伝聞によれば、生前の賢治は実によく本を買い且つ読んでいた。そして、読書の速力は執筆のそれと同様に異常にはやかった。それだけに読んだ本の量も多かったはずである。だが、彼は本がたまるとまとめて古本屋に売ってしまった。また教え子や知人に次々に呉れてしまっている。だから、死後に残ったものはあまり多くなかった。又、彼の読書は所蔵本ばかりでなく、各地の図書館の蔵書に及んでいる。”(※小倉豊文「賢治の読んだ本」)
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※ いずれも、所収 「宮沢賢治・童話の宇宙」 栗原敦編 有精堂出版 90.12

蔵書という側面から西行の影響を探るという実証的なアプローチは既に無理なようだ。では、実証的でなくとも、賢治が西行の影響を受けていたと感じられる作品はあるのだろうか。いや、貝殺しというモチーフ以外、特段、影響をうけていたようには感じられない。それなのに、なぜ、西行の作品の貝殺しと殺生罪のモチーフが「銀河鉄道の夜」三連作だけに現れるのだろう。このことをどうとらえたらいいのだろうか。

この謎解きの感覚は”イサド”の謎を探っていた時の感覚に似ている。伊藤光弥氏は「森からの手紙」で古地図上でイサドという地名を徹底的に探した。けれども見つからなかった。これは、イサドがサイド(西土=西方浄土)のアナグラムであって、実在の地名ではなかったからである。観点を変えなければいけない。ここは変えるべきである。

もし、西行から影響を受けたという命題がそもそも事実ではないとしたらどうなるか。小倉氏の言われるとおり、賢治は膨大な本を読んでいた。その中に山家集があったとしてもおかしくはない。山家集は明治末期から大正初期の歌人に影響を与えるほど知られていたはず。賢治は「山家集」を読んでいた。つまり、山家集西行作品についての知識は持ち合わせていたとするのが、持ち合わせていなかったとするよりも、妥当であろう。

賢治作品は、西行の影響は受けてはいない。しかし、影響をうけていないはずの西行の作品のモチーフ、つまり知識が三連作に持ち込まれている。なぜ・・・。ここは、賢治がわざと持ち込んだと考えるべきではないのか。銀河鉄道の夜と二十六夜の作品中に、いったんは同じ童謡を埋め込み、後に削除している。両作品を繋げるものは二十六夜の最後の列車の汽笛のみになった。

二枚貝説は、クラムボンとはクラム(Clam)ボン(坊や)で二枚貝の子供のことである、という命題からはじまった。二十六夜とやまなしを繋げたものはクラムボン殺しの犯人と動機であった。それは、二十六夜のフクロウのお経の中に書いてあった。最後の列車の汽笛が二十六夜銀河鉄道の夜を繋げた。三作を三連作とすることで、鳥が貝殺しという殺生罪に染まっているというモチーフが浮がび上がってきた。対照的に苹果は罪に染まっていない。苹果は浄土に生まれ変わるために清浄な命、鳥は再度地上に転生するための罪に汚れた命。来迎、輪廻転生、ベジタリアン、十字架、後は芋づる式のように様々なメタファー続々と見つかった。

十六夜のフクロウのお経は賢治の創作である(「宮沢賢治必携」學燈社 86)。フクロウは照井謹次郎氏のエピソードから見いだすことができる。が、貝殺しはどうであろうか、やはり西行なのである。フクロウは他の鳥でもよかったのかもしれない。賢治が照井氏からを教えられた獅子鼻で夜明かししたエピソードの大正十一年八月十八日には、「銀河鉄道の夜」第0次稿は脱稿していた。ということは、貝殺しの方が基本モチーフ、つまり、西行の作品から発想したモチーフが三連作のメインなのである。そう、影響ではなく発想なのである。

なぜ、西行か。なぜ、琴の星は茸(きのこ)のように足を延ばすのか。堂々巡りである。しかし、「なぜ、西行が見つかるのか」というように問い掛けを言い換えたとき、答えが見つかったような気がした。電車だろうがネコバスだろうが、乗合の交通機関には行先表示がある。鉄道用語では行先板(サボ)というそうだ。つまり、わたしが見つけたのは銀河鉄道の列車の行先板だったのかもしれない。

じっと目を凝らすと、そこには「西行(にしゆき)」と書いてあった。