“文学少女”シリーズ読了 “ほんとうのさいわい”とは

“文学少女”本編八冊+最終話一冊+見習い編三冊+挿話集四冊を読了しました。

主人公にならって、味覚で表現するなら、そうめん流し。スダチではなくレモン風味のつゆで。文芸作品の読感を味覚で表現するというのは作者のオリジナルだと思います。料理番組などでみられる味覚表現よりもイメージしやすいと感じます。

一言でシリーズ全体を評すると、文章がとても滑らか。少しも引っかかるところなくするする読めます。そのうえ、平易で常識的な説得力があります。そこがこの作者の本質的な魅力なのだと思います。

そして、現実的な平衡感覚を失わない。どこまでもどこまでも陰鬱な心情表現の深さ細やかさ。クライマックスに到達するまでには、思わず正体不明の人物の心情の暗部にひきこまれてしまっています。その心情を救うのは、ただただ穏やかに理知的に主人公が語る言葉だけです。そして、静かにじわじわと明るくなってゆく感覚。このシリーズは、しばらく時間を置いて、また読み返そうと思います。

シリーズ最初の一冊を読んだとき真っ先に感じたのは、わたしが文学*年だったことはないなぁ~、ってことでした。高校も共学だったから、文学少女はいるにはいたのでしょうが、全然気がつきませんでした。このシリーズで出てくる作品で読んだことがあるのは、太宰治宮沢賢治くらいしかありません。

しかし、シリーズで紹介された他の未読の作品を読みたいかといわれると、読みたいとは思いません。作品中に引用・解説・解釈されるような深く込み入ったストーリーや背景を語られると、いまさらそこまで読み込めない、とかえって尻込みしてしまい、むしろ読みたくなくなります。

***以降ネタバレを含みます***

また、登場人物がさまざまな性格描写で明確に書き分けられているのは大したものだと思います。本編以外の八冊も本編同様たのしめるのはこの人物描写の細やかさブレのなさのせいだと思います。挿話集にしか登場しない人物にも手抜きがありません。牛園、反町、大西。中でも、大西のセリフが余韻を残します。

さらに、見習い編の菜乃。遠子が春の日差しとすると、菜乃は春一番の南風(突風)のイメージです。“!”がつきまくりのセリフで事件を解明してゆくのですが、菜乃の推理が“だいたい”当たっているというのが面白い。陽性でおせっかいで遠子を失って湿りがちな心葉の相手にはぴったりです。

意外に凝っているなと感じたのが美羽(ミウ)です。「美羽はかわいい」「美羽は猫舌だから」「美羽は…ぼくの首筋にやわらかな頬をすり寄せた」「美羽が…長い爪を唇にあてて可愛らしく微笑んだ」「一詩にとってあたしは、捨て猫の世話をしてるみたいなものなんだわ」。美羽は、シリーズを通して、ずっと“猫”でした。

さて、前のブログで“「個々が幸せならみんな幸せ」という「世界が全体・・・」とは正反対の帰納論的決着”と感じた部分を引用します。この部分は、通説がどうのこうのではなく、作者の「銀河鉄道の夜」の読みと評価すべき箇所なのでしょうね。

 ようやく目的の地に辿り着いても、そこに求める幸いはないかもしれない。
 永遠の幸いなんて、この世に存在しないかもしれない。
 一瞬の幸いや感動は、生きてゆく長で、無数に散らばっている。
 それは、朝が来れば消えてしまう星のように、儚いものかもしれない。
 だけど、小さな光が、心の中でまたたき続けることもあるんだと。
 そして、闇が消え去り、空が晴れ渡り、悲しい真実も浄化され、
 どこまでも広がる澄み切った美しい世界が目の前に出現する瞬間があるのだと。
 (中略)
 ああ、何もかもみんな透明だ
 (“文学少女”と慟哭の巡礼者 P362~P363)


インスピレーションをくれる本は良い本です。加えて“文学少女”シリーズはのめり込むほど面白い本です。「“文学少女”と慟哭の巡礼者」を読み、ひらめいたことがあります。それは、“ほんとうのさいわい”の意味についてです。

所収は失念しましたが、賢治に興味を持ち資料の読み込みを始めた頃、宮沢清六氏の記述に、ある疑念を抱いたことがあります。なぜ、賢治からではなく、トシから発せられたバトンなのだろうかと。トシは詩の悲傷の対象というだけではないのだろうか。という疑念です。


 トシさんから賢治に渡されたバトンを受けて走ってきた
 (宮沢清六 所収 不明)


二枚貝説を組み上げてゆく過程で、オホーツク挽歌のトシが立てた南十字のε星を賢治が冷笑した理由に思い至ったとき、ふと、この清六氏の言葉を思いだしました。

賢治は、南十字はα星からδ星の4つの恒星からなる星座という知識をもっていて、ε星の「Cor Christ(キリストの心臓)の位置にある星である」という知識はもっていなかった。だから、トシが五本目を立てたのが意外だった。そのため、南十字は4本で十分ではないのかと軽蔑の意を込めた冷笑を返す。オホーツク挽歌には“軽蔑した”を“つめたく笑った”という校異があります。その冷笑にたいして、トシが“Cor Christ”という知識を披露する。このときから賢治にとって南十字は五星の星座になったはずなのです。

さらに、北十字の五星に南十字の五星を足し合わせると“十”になる。南十字の変形として“十”に“一”を添えた「やまなし」の章題である“十一”というアイデアもあったかもしれません。そこに、来迎三尊を意味する“三”を重ねる。夏の大三角、そして、北十字から南十字へと流れる天の川を縦線に、七夕のカササギの橋を横線として“十”を作ると三つ目の“十”ができ、「銀河鉄道の夜」は、銀河に三つの十字架が出現する物語になります。

また“五”とは片手の指の数で、両手を合わせると“十”。したがって“十”は合掌の意味をもちます。そして、合掌には、指を伸ばす合掌と指を組む合掌の2種類があります。十字架の姿をした第一の物語の骨格はすでにあるので。あと二つ、指を組む合掌の骨格を持った物語と指を伸ばした合掌の骨格を持った物語があれば“三”になる。

銀河鉄道の夜」「二十六夜」「やまなし」この三部作構想の、どこまでが賢治の発想でどこまでがトシの発想かはわかりません。けれども、この構想は、伝記資料から大正十一年八月頃までの、トシの生前の間に成立した構想と思われます。つまり、バトンはトシから発したことは間違いないことと考えられるのです。


また、「『春と修羅』への独白」」(一九四六年五月、宮沢清六 ちくま文庫「兄のトランク」所収)にはこうあります。


 アラッディンの洋燈(ランプ)というのは、ジョバンニの切符であり、
 宝珠「貝の火」であり、竜と詩人の「陀羅尼珠」であり、
 そしてナモサダルマプフンダリーカサスートラである。
 この洋燈を持つものこそ、アラッディンになれるのである。
 (宮沢清六「『春と修羅』への独白」)


ジョバンニの切符にある“おかしな十ばかりの字”。銀河鉄道の駅は星座を意味し、切符は南十字を意味します。ならば“おかしな十ばかりの字”とは“Cor Christ”であると解釈するのが自然です。さらにキリストの心臓→ジョバンニの心臓→ジョバンニの命、ジョバンニは生者である、と連想してゆくと、切符は“生者の命”を意味していることに気づきます。命を持つ者はどこまででもいける。それが「二枚貝説」の解釈です。

清六氏の指摘する、洋燈、切符、貝の火、竜の珠に共通する属性は“万能”です。特別に選ばれたものだけが入手できる宝珠。しかし、入手できても使い方をあやまるとホモイのようになります。宝珠は、万能であるけれど無謬ではないのです。おそらく、宝珠を入手することが“ほんとうのさいわい”ではないのだと思います。

この「『春と修羅』への独白」には「…すべてわたくしと明滅しみんな同時に感ずるもの…」という副題が付けられています。わたくしの明滅、その明滅をみんなが同時に感ずる。明滅するわたくしは宝珠に比定できます。また、「“文学少女”と慟哭の巡礼者」の蠍の火の引用にもあるとおり、明滅は願いであり、その願いは、みんなに“ほんとうの幸”を感じてほしいという願いであるはずです。したがって、宝珠の明滅とは願いであって“ほんとうのさいわい”そのものではないはずです。

では、「銀河鉄道の夜」の“ほんとうのさいわい”とは何か。ジョバンニの切符とは、ジョバンニの命でありジョバンニが生者であること。清浄な命の苹果を食べた者は天上に生まれ、不浄な命の鳥を食べた者は地上に転生する。物語のテーマは“命”と“生”にあると思います。

嬉しいこと、楽しいことだけが“さいわい”なのでしょうか。悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、痛いこと、具体的には勉強やトレーニングの辛苦、別れと出会いの表裏。決して乗り越えることのできない悲しみさえも、何もかもすべてを含めての“さいわい”なのではないでしょうか。


 「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るために
  いろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
  (「銀河鉄道の夜」)


“ほんとうのさいわい”とは、“命あること、生きていること”だと思います。