小沢俊郎「アルビヨンの夢と修羅の渚」四次元61年4月

同じく「川しろじろとまじはりて」国文学75年4月
(所収 小沢俊郎「宮沢賢治論集3」有精堂1987年8月)

イギリス海岸は、作品「イギリス海岸」の化石発掘のエピソードを通してプリオシン海岸との関連をもちます。しかし、一方で、イギリス海岸は“修羅のなぎさ”とも関連を持ちます。さらに、この“修羅”は、どうやら“恋”との関連性を持っているようなのです。

 なみはあおざめ 支流はそそぎ/たしかにここは 修羅のなぎさ
(「イギリス海岸の歌」)

小沢氏は、イギリス海岸には、作品「イギリス海岸」の明るさとは逆の暗さを持った「イギリス海岸の歌」があり、歌詞中の“修羅のなぎさ”という言葉は、文語詩「川しろじろとまじはりて」の異稿「泥岩遠き」に出現し、その異稿「泥岩遠き」は“きみ”への抑えた恋の苦しさが中心詩情であるとしつつ、後に“きみ”を削ったものが「川しろじろとまじはりて」の定稿となったと分析しています。

 きみ来ることの/よもなきを知り/なほうち惑ふ瞳かな
 尖れるくるみ/巨獣のあの痕/磐うちわたるわが影を
 濁りの水の/かすかに濯ふ/修羅の渚にわが立てる
 ([泥岩遠き])

そして、その“きみ”とは、松の針にあらわれる、“ほかのひと”と同一人物ではないかという問題も呈しています。

 おまへがあんなにねつに燃やされ
 あせやいたみでもだえてゐるとき
 わたくしは日のてるところでたのしくはたらいたり
 ほかのひとのことをかんがへながらぶらぶら森をあるいてゐた
 (「松の針」)

“イギリス海岸”と“修羅の渚”と“きみ、ほかのひと”。なぜ、イギリス海岸と修羅と恋とが重なってくるのでしょうか。そして“きみ、ほかのひと”とは、いったい誰のことなのでしょうか。