鳥とは

苹果とは命である。であれば、苹果と鳥は、いったい何が違うのでしょうか。

かほるたちが苹果をお菓子のように食べます。おなじようにジョバンニ達が食べたお菓子は鳥捕りがくれた鳥です。青年がジョバンニ達にも苹果をくれますが、ふたりは食べずにポケットにしまっています。

かほるたちは南十字の駅で降りることができましたが、カムパネルラやジョバンニは降りることができません。苹果を食べた者と食べない者の明確な違いは、南十字の駅で降りられたかどうかという点にあると思います。

ならば、鳥とは何かというと、やはり命だとおもうのです。「林の底」という作品があります。そこに登場する鳥たちには、もともと色がなく、あとで思いおもいに染まったものだと賢治は書いています。

  「わたしらの先祖やなんか
  鳥がはじめて、天から降って来たときは、
  どいつもこいつも、みないち様に白でした。」
  (「林の底」)

「染まる」とういうキーワードがあります。色とは別の何かの象徴ではないかと考えました。罪に染まる。手を染めるといいます。色は罪の暗喩へと繋がりそうです。鳥は螺蛤を殺します。殺生という罪に染まっています。しかし、苹果は植物ですから他者の命を奪うことなどありません。すなわち、苹果とは罪に染まっていない命といえます。

そう考えるならば、「銀河鉄道の夜」の苹果とは、天上に生まれるための清浄な命であり、鳥とは、地上に転生することになる不浄な命であると考えることができると思います。鳥は殺生という罪に染まっているのです。

銀河鉄道に乗車するのは命を失った者だけです。そして、苹果の形状をした命を経口摂取した者だけが、天上に行くことができます。ならば、銀河鉄道の中で行われているのは、命を持たざる者たちが、次の世の命をその身の内に取り入れる通過儀礼と解釈することができます。

苹果の持つ側面に関わる、第二次稿に現れ第三次稿で消えた興味深いフレーズがあります。

  ジョバンニは僕はもうあゝ云ふ苹果を百でももっているとおもひました。
  (第二次稿)

苹果を命に置き換えると、ジョバンニは命を百個ほどももっている、と読み替えることができます。第一次稿から第四次稿まで、ジョバンニが食べたのは、鳥捕りの鳥の押し葉以外はパンとトマトだけです。賢治の考える命というのは、次のような性格をもっていたのではないでしょうか。

・命は経口摂取するもの
・命は英文法でいうところの計数可で数えることができる。
・命は最終的に匂いになって散らけて、消化されてしまう

命は計数可能であり、命を複数個持ってる。・・・はたと気がついたことがあります。

  二疋の大きな白い鳥が
  鋭くかなしく啼きかはしながら
  しめつた朝の日光を飛んでゐる
  それはわたくしのいもうとだ
  死んだわたくしのいもうとだ
  兄が来たのであんなにかなしく啼いている
  (「春と修羅」 無声慟哭 白い鳥)


最初にこの詩を読んだ時から、二疋のうちどちらがとしなのだろう、なぜ二疋なのだろうとずっと疑問に思っていました。しかし、命は計数可能であり、命は複数個持てる、ならば二疋の両方とも、としの命であった鳥、と解釈することができます。したがって、この詩の底には、としに最後に残っていた命が鳥の姿で飛んでゆく。その鳥は、しかし罪に染まっていない白い鳥である、という賢治の心情が隠されていると読むこともできます。

・・・つづく