賢治はベジタリアンだったのか

賢治はベジタリアンである。そういうイメージが固定していると思います。しかし、人間、生まれながらのベジタリアンなどいない訳ですから、賢治にかぎらず菜食生活には始まりと、人によっては終わりがあるはずです。

大正7年4月10日(水)
  この頃から菜食生活をはじめ、以後五年間続ける
  (「(堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」)

大正7年の五年後といえば大正12年です。そのころに、菜食生活を止めるきっかけになりそうなエピソードはないのだろうかと探してみたところ、サザエの大皿のエピソードが見つかりました。

大正12年1月4日
  その夜きょうだいふたりでレストラン出かけて会食。
  なんでもいいから見はからってもってこいといったら
  大皿にさざえの壷やきがきて「これはとられるかな」
  と笑った(堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」)

じつに堂々とさわやかな賢治です。しかし、別な資料では、次のようになっています

  上野広小路のレストランにあがったすじゃ。賢さんは
  しょっちゅうこういうところに来てでもいる人のよう
  に、“みはからって二品ばかり”と、軽く、さわやか
  に女中さんに言ったのス。二品と注文したのは、兄の
  懐中はとぼしくなったためだなと、私は思いあんした
  よ。はじめの出てきたひとしなは、なにかヌタのよう
  だったんです、これはたいし高いもんではあるまいな
  ―――ちょっと安心しあんした。ところが次に女中さ
  んが持ってきたものを見ると、賢さんはぎょっとして
  息をのむような顔つきになったんすじゃ。きれいで大
  きなお盆のようなものに、まっ白い塩が敷いてあった
  なス。その上に、サザエの壷焼きがちんまりひとつ載
  っていあんしたのス。賢さんは、そわそわしだして、
  「じゃじゃ、がま口には五円しか持ってないじょ」と、
  私にいいあんしたのス。私も大船にのったつもりで、
  金は持ち合わせなかったし、さあ勘定が足りなかった
  ら兄さんどうするのだろうと、心配でたまなくなり、
  おいしいサザエの壷焼きもどこに食べたか、味も何も
  わからなかったんすじゃ。・・・・・・びくびくしな
  がら勘定を聞いたら四円ということだったので、顔見
  合わせて、ほっとしたのス。」(森荘已池宮澤賢治の肖像」)

  それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみは
  からい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ
  引き上げた。(宮沢清六「兄のトランク」)

持ち合わせで勘定が払えるかどうか不安なままの賢治が、はたして目の前の高価でおいしそうなサザエの壷焼きを食べなかったのでしょうか。

清六さんのお話では、賢治がサザエを食べたとは、はっきりとは書いていませんが、わたしにはとうていそうは思えません。清六さんは味も何もわからなかったと回想しつつも、”おいしい”サザエの壷焼きと、しっかり味の感想を述べています。大皿の上の、二人で1個のサザエ。賢治が菜食中だからといい賢治の分のサザエも清六さんにゆずったとしたら、そちらの方が清六さんの印象に残るのではないでしょうか。何せ食べると実はおいしいうえにとても高価なサザエ料理だったのですから。

賢治は食べたのだと思います。五年間続けた菜食生活の果てに、菜食の誓いを破らせたのは、こともあろうに“螺蛤”でした。そのことは、賢治をして菜食生活にピリオドを打たせるのに、じゅうぶん重大な出来事だったのではないでしょうか。わたしは運命論者ではありませんが、なにやら皮肉な運命を感じます。

上野ー花巻間の片道乗車券が五円五十銭、牛丼三十五銭、かけそば八銭、アサヒビールのCMでおなじみのてんぷらそばが十二銭のころの話です。ベジタリアンとしての賢治についての考察は鶴田静氏「ベジタリアン 宮沢賢治晶文社 99年が詳しいのでそちらをどうぞ。

・・・つづく