カムパネルラはどこに転生したのか

わたしは、カムパネルラは南十字で降りたのではなく、転生していったと解釈しています。では、カムパネルラはどこに転生していったのでしょうか。ヒントは第四次稿にありました。

ひとつは、ラストでカムパネルラの父親が、もう四十五分たったから駄目だと言ったあと、すぐに「あしたの放課後みなさんと一緒にうちへ遊びに来てくださいね。」と言うところです。また、みなさんとは{みなさん=ジョバンニ父子}と{みなさん=同級生}のどちらなのでしょうか。どちらにしても、わが子の生存をあきらめた直後にいう父親のせりふにしてはかなり不自然です。また、ジョバンニの家に便りがないのに、カムパネルラの父のところには連絡が行っています。暗に{ジョバンニの父=カムパネルラの父の友達}という関係を示唆しているところでもあります。

もうひとつは、ジョバンニが、母に、他の級友たちはジョバンニの父がラッコの上着を持ってくることについて冷やかすように言うが、カムパネルラだけが言わないというと、ジョバンニの母が、「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまへたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」というところです。一見、ジョバンニの母がカムパネルラとカムパネルラの父を誤認しているかのように思えます。しかし、この母のセリフを素直に読むと{あの人=カムパネルラ}{カムパネルラ=ジョバンニの友達}{あの人=ジョバンニの父の友達}という三つの命題から、{カムパネルラ=ジョバンニの父の友達}という矛盾した命題を導出すること意図しているのではないかという可能性に気づきます。

  みなさん=ジョバンニ父子
  カムパネルラ=ジョバンニの友達
  ジョバンニの父=カムパネルラの父の友達
  カムパネルラ=ジョバンニの父の友達

これらから導出できる命題は、{カムパネルラ=カムパネルラの父}という命題です。すなわち、{父と子が同一存在である}という命題です。ならば、「銀河鉄道の夜」では{父と子が同一存在である}というモチーフは可能なのでしょうか?

可能です。キリスト教の三位一体説ですね。三つの存在が同一存在であるとういのは来迎三尊にも通じます。阿弥陀、観音、勢至と三つに分かれていますが中身はどれも仏陀であるという考え方です。すなわち、カムパネルラの転生先は過去世であって、カムパネルラは、カムパネルラの父として転生していたことになるのです。

一応、カムパネルラの転生先を明らかにできました。ただ、カムパネルラを過去世に転生させたことについては、賢治の心境が反映していたのではないでしょうか。第四次改稿は昭和に入ってからとされています。病床にあった賢治は、過去世に転生したいという願いをもっていたのかもしれません。

また、三位一体説をとると、{みなさん=同級生}という読みも可能になります、{カムパネルラ=同級生の友達}と{カムパネルラ=ジョバンニの友達}の二命題は所与とすると、カムパネルラはカムパネルラの父に置き換えられますから{カムパネルラの父=同級生の友達}{カムパネルラの父=ジョバンニの友達}という命題が、はなはだ不自然かつ不条理ではありますが、形式的には成り立ち得ます。

カムパネルラの父がジョバンニたちを誘うのは、カムパネルラが「あしたの放課後みなさん(同級生たち)と一緒にうちへ遊びに来てくださいね。」と誘っているだけのことになります。なにせ、カムパネルラは死んだけれど生きているのですから。

さらに、カムパネルラの父とカムパネルラ(子)が同一存在である。この命題に、三位一体説を重ねあわせると、父とは神のことであり、子とはキリストのことになります。したがって、{カムパネルラ=キリスト}となります。

カムパネルラがイエス=キリストであれは、ジョバンニの名前の由来も判明します。原子朗宮沢賢治語彙辞典」によると、ジョバンニとはヨハネのイタリア語読みと解説されています。この場合、ヨハネとは、洗礼者ヨハネのことではなく。ヤコブと兄弟の漁師のヨハネのことです。つねにイエスのそばに寄り添った人物で、キリストの心臓の音を聞く者という異名をもっていた人物です。

また、カムパネルラがイエスであるのなら、北十字を前に「カムパネルラの頬は、まるで熟したりんごのあかしのようにうつくしくかゞやいてみえ」たとういう表現は、ちょうど、キリストの復活を想起させられる表現になっています。すなわち、「うつくしくかゞやいて」という形容は、「キリストの復活」の見たままありのままの描写ということになり、すなわち叙事ということになります。抒情ではありません。

  美しく頬をかがやかせて
  「・・・ まあ、きれいなそら」

ジョバンニの心を熱くときめかせた、かほる。北十字を前にしたカムパネルラとおなじ描写ですが、かほるの容姿を描写するこの部分は、単なる形容であるとするよりも、あらためて、抒情と解すべきと考えます。

・・・つづく