宮崎駿作品「風立ちぬ」の振り返り

第五作品を検討する前に、宮崎駿作品「風立ちぬ」の振り返りをしておきます。

ベアトリーチェ問題。宮崎監督は引退会見(2013.9.6)でラストシーンに言及し、あの草原は実は煉獄で、菜穂子はベアトリーチェだから堀越二郎もすでに死んでいると発言されていたのが引っ掛かっています。ダンテ「神曲」を読んだことないため、わたしには、菜穂子=ベアトリーチェという発想はまったくあるはずもありませんでした。

わたしは、「風立ちぬ」を見て菜穂子=イザナミと解釈していました。菜穂子が泉(黄泉)のそばにたたずんでいました。ですから、菜穂子=ベアトリーチェ=死者であるという設定には納得がいきません。九試を開発中の二郎の傍らにいたのは生きた菜穂子でなければならないはずです。そうでなければ菜穂子の“時が止まる”はずがないからです。死者は時の流れに対してもはや不変の存在です。生者だけが時の流れとともにあります。“時よ止まれきみは美しい”、“一時に一度だけ”、わたしが勝手に誤ったメッセージを受け取った、つもりになっていたと言われればそれまですが…。

未練がましいようですが、菜穂子=ベアトリーチェは嘘(韜晦)だと思います。なぜなら、黄泉から引き戻された生きたイザナミは、しばしの時を生きたイザナギとともにいたのでなければ、そこに生存する意味を見出せないからです。逆に、イザナミをカンパネルラに、イザナギをジョバンニに重ねると「銀河鉄道の夜」のモチーフが導出できます。生者と死者の狭間にいるカンパネルラと生者のジョバンニです。

風立ちぬ」の感想で「宮沢賢治の匂いもしない」と書いたのは嘘です。本当はかすかに匂いを感じていました。でも、確かかと問われると自信はありませんでした。しかし、引退会見の菜穂子=ベアトリーチェという発言を聞いて確信しました。演出家の口から出る言葉はたいてい嘘(韜晦)です。演出家による真実は作品中で語られるのです。だから、菜穂子は、生きたイザナミであり、生者と死者の狭間にいるカンパネルラであるべきなのです。

すなわち、「風立ちぬ」は、「銀河鉄道の夜」のモチーフとオマージュを内在した宮崎駿監督11作目の劇場用長編アニメ作品ということになるのです。ここでは、11作目というのが重要です。漢字で書くと十一。1作目から10作目までは大きくふたつ、前後5作ずつに分けられます。前5作と後5作の違いは、後者では主人公のどちらかに呪い(魔法)がかけられていたことです。五と五なので十なのです。サツキとメイです。さらにプラス1。

「やまなし」初期稿の第2章の章題が「十一月」でした。では、“一”とは…。自明です。“十”とは南十字の4星が形作る十字。プラス1は「Cor Christ(キリストの心臓)」の位置にあるといわれるε星ということになります。ε星はとしがその意味を賢治に教えた星でもあり、「銀河鉄道の夜」にとって特別な星です。天上に生まれる者はここで降り、降りられない者は地上に転生してゆく、偽十字ではない真の南十字たるを象徴する星、終着駅たるを象徴する星です。

すなわち、「風立ちぬ」はε星に比定されるべき位置にある作品です。宮崎駿監督による劇場用長編アニメ作品の終着たる作品ということになります。

宮崎駿作品「風立ちぬ」をよりどころとするならば、“南十字の終着駅たる象徴はε星である”。この命題が真となる作品が「春と修羅」につづく5作目であると想定して探してみようと思います。