オホーツク挽歌

詩「オホーツク挽歌」の中でも“(十一時十五分”からはじまる12行がとくに難解です。この部分の解釈を難しくしているのが8行目の“HELLと書きそれをLOVEとなほし”です。そこで、8行目を抜いて読んでみます。すると、読解上の難しいことはなにもなくて、賢治の視線が、時計の盤面から空に移され、また足元に戻り、砂の上の痕跡からとしの思い出へと連想が飛び、としのエピソードが語られる、それだけです。

  (十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)
 鳥は雲のこっちを上下する
 ここから今朝船が滑って行ったのだ
 砂に刻まれたその船底の痕と
 巨きな横の台木のくぼみ
 それは一つの曲がった十字架だ
 幾本かの小さな木片で
 ひとつの十字架をたてることは
 よくだれでもがやる技術なので
 とし子がそれをならべたとき
 わたくしはつめたくわらった

ここは、だれもがマッチ棒遊びを連想するところだと思います。では、“曲がった十字架”と“新しい十字架”とは何でしょうか。「銀河鉄道の夜」になぞらえて考えてみると、“曲がった十字架”とは北十字に、“新しい十字架”とは南十字に相当します。また、12行目の“つめたくわらった”の部分は校異があり、“けいべつした”としたのが校正前です。

したがって、“つめたくわらった”には軽蔑の意味があるようです。それは、としの行為についてであって、なぜなら、“だれでもやる技術だった”から。ならば、なぜ“だれでもやる技術”が嘲笑の対象になるのでしょうか。単純に、そのときの賢治には思いつかないことだったからで、その答えがはなはだ意表をついたことだったからだったからであり、冷笑が賢治自身に跳ね返ってしまっていたからではないでしょうか。


としが賢治にマッチ棒のなぞなぞを出します。「これが北十字。1本以上動かして南十字にしてみて」と。

では、何本のマッチ棒を使うと北十字になるのでしょうか。北十字白鳥座と思われているかもしれませんが、北十字座を構成する星は白鳥座α、β、γ、δ、εの5星です。η星は必ずしも入れる必要はありません。マッチ棒で北十字をつくるとなるとなおさらです。5本のマッチ棒の頭(薬の部分)をそれぞれα星からε星の位置にあわせて横倒しで置いてゆくと、ちょうどη星の位置で“こわれた”十字架状の形ができあがります。

 北十字
 白鳥の尻にあたるα星デネブシグニからγ、ηを経てβ星アルビレオ
 達する線と、δ、γ、εを結ぶ線とが十字型を作っている。これは全天
 における最も見事な十字形で、南十字に対して北十字と呼ばれる。長さ
 は20度をこえ、α星が十字架の頭で、β星がその足となっている。フラ
 ンス語では“Croix du Nord”(クロワドゥノール)という。
 (「星の事典」)

さてさて、5本のマッチ棒で南十字を作るにはどうすればいいのでしょうか。ジョバンニの切符の文字が“Cor Christ”と知っている我々が答えにたどり着くのは簡単です。しかし、そのときの賢治はたどり着けなかったようです。なぜか。それが賢治の冷笑の意味するところであり、それがそのときの賢治には“Cor Christ”という知識が欠落していたことを意味しているのだと思います。

賢治は降参だと、としにいう。としは、たとえば火鉢の灰の上にでも、マッチ棒の頭を上にしてそれぞれα星からε星の位置にぷすぷす突き刺して見せる。しかし、賢治には5本目のマッチ棒は不要に思える。賢治はわらって「一本、余計じゃないですか(笑い)」と軽く反論します。そこで、としは、おもむろ種明かしをします。ε星は南十字座のひとつで“Cor Christ”の位置にあると言われると。賢治の嘲笑は凍りつくことになります。薬の部分を頭にして立てたマッチ棒は、「銀河鉄道の夜」の“三角標”のイメージにも重なります。

 オーストラリア、ニュージーランド、および西サモアの国旗にはそれぞれ
 南十字星が描かれ、しかもε星をも忘れずにつけている。このε星はさし
 ずめ“Cor Christ”(キリストの心臓)ともいうべき位置にある。
 (「星の事典」)

大正十二年七月三十一日夜、賢治は、花巻駅、すなわち、銀河ステーションから白鳥の駅を目指して北上しました。八月四日、賢治は白鳥の駅にたどり着きます。ここで、なぜ、花巻駅が銀河ステーションになるのか疑問に思われるかもしれませんが、銀河ステーションは、季節、経度、時刻には影響されないことを思い出してください。おおむね、北極星が見えさえすれば、どの駅であっても銀河ステーションになりえます。

銀河鉄道が白鳥の駅を発車したのは十一時二十分。“十一時十五分”は発車五分前。空のかなた、鳥が雲を上下している。あの辺りを銀河鉄道が上昇中なのだろうか。時計を見ると発車五分前。賢治は間に合ったはずだった。しかし、銀河鉄道は賢治を乗せずに発車していってしまった。北の果てまでめぐり着たのに、発車時刻に間に合っていたはずなのに、自身は銀河鉄道に乗れないという事実の悔恨と理不尽が“十一時十五分”という表現だったのだと思います。

「オホーツク挽歌」のこの部分に隠されているのは、十一時二十分、三角標、白鳥の駅、北十字、そして、南十字とCor Christです。賢治が「銀河鉄道の夜」の原案は“とし”だったと書きのこした箇所のように読むことができます。


HELLと書きそれをLOVEとなほし

さて、“HELLと書きそれをLOVEとなほし”はどう解釈すればいいでしょうか。HELLとLOVEの言葉の意味を考えていっても観念の罠に陥るだけです。ここで、マッチ棒のパズルというモチーフを適用するとどうなるのでしょうか。

HELLをマッチ棒で作るには11本必要です。LOVEは12本必要です。ここでの問題は、「どうすれば11本を12本にできるのか」という謎解きではなくて、「11本(行)と書き12本(行)になほし」と読み替えるだけでいいのだと思います。だとするならば、この行は、もともとの詩には“HELL…”の行はなくて、あとで追加した行である、という意味にとれます。それでなくても賢治には「やまなし」で“十一”を“十二”に直した前科があります。

では、“HELL…”の行の追加が意図的なものだとしたら、“HELL…”の行は何を意味するのでしょうか。北十字から南十字へと続く11行で現されるのが天の川。それを横切るように追加される1行。ちょうど、かささぎの橋のイメージに重なります。

※鈴木俊太郎「星の事典」昭和48年 恒星社厚生閣

・・・つづく