「やまなし」 祈りの姿

銀河鉄道の夜と二十六夜では、それぞれカンパネルラと穂吉というように、死者は固有名詞をもっています。ところが、やまなしでは一般名詞である“やまなし”です。

なぜ、一般名詞なのでしょうか。来迎の対象になる者は特定の誰かではないのでしょうか。「やまなし」はじつに韜晦に満ちみちた作品です。タイトル「やまなし」にも、まだ何か意味が隠されているのではないでしょうか。

初期形、幻燈の二枚目のサブタイトルである11月。成立時期は二十六夜の内容との密接な関わりから、大正11年夏~大正12年春。やまなしの岩手毎日新聞に発表されたのは大正12年4月8日のことです。

かばの花の開花時期は、天候にも左右されますが、盛岡では遅くとも4月末までなのだそうです。開花時期が早ければ落花時期も早くなるはずで、必ずしも5月初とは限りません。捕食された魚への鎮魂の意味を込めて流されるかばの花。幻燈の一枚目のサブタイトルは4月でもよかったように思えます。しかし賢治は五月としました。

賢治が北上川にりんごを落とす実験をしたのが十月。したがって、二枚目のサブタイトルは十月でもよかったはずなのです。一枚目のサブタイトルの“五月”が最初の構想どおりとするなら、二枚目のサブタイトルも“十月”がふさわしいはずです。

なぜなら、「銀河鉄道の夜」「二十六夜」「やまなし」をひとつの作品群とすると“五”と“十”はそのメタファにおいて同義になるからです。すなわち、五月の“五”は出発の十字架である北十字を意味し、十月の“十”はその字形からもうひとつの十字架である南十字を意味することになります。賢治の本来の構想はそうであったはずです。

であれば、なぜサブタイトルが5月と11月なのか。その二つの月が賢治にとって既知の年の特定の月であり、さらに発表時期にも意味があるとするなら、5月と11月は、まだ巡り来たっていない5月と11月を意識しているのかもしれません。であるなら5月と11月は大正11年の5月と11月以外ではありません。

さらに、作品タイトルが「やまなし」なのはなぜでしょう。やまなしが単純に一般名詞ではなく、谷川三尊に来迎される対象たる特定の個体に通ずる何かの意味を秘めている一般名詞だから、という理由があるからではないのでしょうか。

そういう観点で考察すると、やまなしの“し”音と位置は、としの“し”音と位置に重なります。つまり、韻をふんでいます。作品タイトル(とし)と、タイトルに向かい合う“二枚の幻燈”。“二”のメタファは、“蛤”というメタファを通じて“合掌”というメタファにめぐり来たります。

銀河鉄道の夜」は“十字を切る祈りの姿”をした作品でした。「二十六夜」は“指を交互に組み合わせる合掌の祈りの姿”をしています。両作品とも、現実の人物・事物を対象とした祈りの姿ではありませんでした。

しかし、「やまなし」は、としに向かう合掌の姿をしています。
 

・・・おわり二枚貝説 目次へ)