「銀河鉄道の夜」の成立時期

銀河鉄道の夜」の第1次稿の構成は独特です。前半がなく後半のみです。なぜ、前半が断片すらないのでしょうか。「銀河鉄道の夜」は、第1次稿から第4次稿まで現存しており、第2次稿以降は、それ以前の原稿の書き直し分、差し替え分とされています。ならば、第1次稿も改稿分である可能性はないのでしょうか。つまり、第1次稿が作品の後半部分のみであるという事実、そして、前半部分が断片すらないという事実が、第0次稿の存在の可能性を示唆しているのではないかと考えます。

賢治詩という観点からみるとは、詩章「無声慟哭」は“お前”に語りかける形式の二人称の詩です。その詩の中に“天上のアイスクリーム”という言葉が出てきますが、この言葉の意味が通じそうな賢治作品は、唯一「銀河鉄道の夜」の鳥捕りがジョバンニたちにくれるお菓子の解釈を通じてのみです。

すると、賢治は、賢治だけがその意味を知る“天上のアイスクリーム”という言葉を使って、意味も通じぬとしに対して呼びかけていたのでしょうか。それではあまりに観念的にすぎないでしょうか。むしろ、としが“天上のアイスクリーム”の意味を知っていた、だから使えたと解釈するほうが自然だと思います。

したがって、としは生前に天上のお菓子がでてくる作品である「銀河鉄道の夜」を読んでいたはずだ、という帰結になります。このことは作品「銀河鉄道の夜」の成立時期を大正11年11月以前にさかのぼらせることになります。

 仮説:「銀河鉄道の夜」第0次原稿はとしの生前に成立していた

そこで、としが生前に「銀河鉄道の夜」を読んでいたという観点で「無声慟哭」三部作を読んでみると、詩に引用されたとしの言葉がことごとく「銀河鉄道の夜」からの引用のように思えてきます。すなわち、としが、臨終の床で自分はカムパネルラだと言っているように聞こえてくるのです。

・あめゆじゅとてちてけんじゃ      →鳥捕りのお菓子
・Ora Orade Shitori egumo        → ジョバンニとの別離
 (わたしはわたしでひとりでゆきます)
・(うまれでくるたて
 こんどはこんたにわりやのごとばがりで →現世への転生
 くるしまなあようにうまれてくる)
・それでもからださえがべ?       →悪い匂い(いい匂いの逆)


これまで、わたしは、ジョバンニ(賢治)、カムパネルラ(とし)という読み方をしてきました。しかし、「銀河鉄道の夜」の作品成立がとしの生前に遡るとするなら、その読み方は誤りです。いくら絶望的な状態にあれ、肉親の死を前提とした小説など書くはずがありませんし、書けるはずもありません。

ならば、現存する「銀河鉄道の夜」には、としは乗っていないのでしょうか。わたしは乗っていると思います。ではとしに相当するのは誰かというと、それは“かほる”だと思います。

かほるは苹果の匂いをまとって出現し、南十字の駅でかなしそうな表情を残しつつ列車を降りてゆきます。これは、としの臨終のことばとは一致しません。むしろ正反対です。

賢治はとしだけがいいところへゆけばよいとは願わなかった、と書いています。“だけが”を“も”と置き換えても意味はかわりません。賢治はとしもいいところへゆけばいいと願った、と解釈できます。“いいところ”とは「やまなし」でいうイサドを意味するはずです。「無声慟哭」のとしと「銀河鉄道の夜」のかほるを比べてみると次のようになります。

・鳥捕りのお菓子 → 燈台看守のりんご
・別離      → 南十字での下車
・輪廻転生    → 離苦解脱
・悪い匂い    → 苹果の匂い


・・・つづく