ジョバンニの切符

ジョバンニの切符とはなんでしょうか。森・堀尾「曼荼羅」説、入沢・天沢「マラルメの「音楽と文芸」」説、西田良子「妙法蓮華経」説、など多々あります。ただ、わたしはちょっと違った見方を持っています。

ジョバンニの切符を見終えた車掌はジョバンニに南十字駅の到着時刻を案内しています。切符と南十字の間には何らかの関連性がありそうです。どこの図書館にもほとんど常備されている天文学辞典「星の事典」に以下の記述があります

  オーストラリア、ニュージーランド、および西サモアの国旗には
  それぞれ南十字星が描かれ、しかもε星をも忘れずにつけている。
  このε星はさしずめ“Cor Christ”(キリストの心臓)ともいう
  べき位置にある。(鈴木俊太郎「星の事典」恒星社厚生閣 73年)

インターネット検索してみましたが、それらの国旗がε星を“Cor Christ”と意識して国旗上に描いているという記述は発見できませんでした。そのかわり、“イエスの心臓”で検索したとき、聖ヨハネ(ジョバンニ)がもっともイエスと行動を供にした人物として「イエスの心臓の鼓動を聞くもの」という別称を持っているという記述を見つけました。それゆえに、ダ・ビンチ「最後の晩餐」でヨハネはイエスのすぐ左に描かれているのだそうです。

そこで、ジョバンニの切符は「キリストの心臓」である、と仮定してみます

 ・四つに折っているから、ひろげると折り目が十字に見える
 ・ブランクを1文字と数えると“Cor Christ”はちょうど十文字である
 ・左側とは記述されていないが上着のポケットから出している
 ・心臓も4つの部分に分かれている
 ・唐草模様とは冠状動脈のことである
 ・はがきくらいの大きさとはちょうど心臓の大きさにあてはまる
 ・緑色は干し肉の色の表現としてとして不可能ではない
 ・鳥捕りの押し葉は、心臓の押し葉の伏線になっている
 ・天の川でたった一つのという表現に当てはまる
 ・これは大したものですぜという表現にも当てはまる

しかし、「キリストの心臓」に

 ・実際にどこまででも行ける効能があるかどうかは不明
 ・いつでも天気輪の丘に帰還できる機能があるかは不明

むしろ、「キリストの心臓」転じて生者ジョバンニの心臓、すなわち、「ジョバンニの命」としたほうが意味が通ずるのではないでしょうか。

ジョバンニの命に限らず、だれの命であっても「天の川でたった一つ」であることは誇張せずとも真実です。死者ばかりが乗り合わせた銀河鉄道の中にあって生者だけが持ちうる「命」。「命」はその可能性の無制限さゆえに「どこでも勝手に歩ける通行券」というレトリックも可能です。

さらに、「天の川でたった一つ」というレトリックには二つの側面があるように思えます。人の命という、今生だけの、後にも先にも絶無にして、ただ一度限りの宇宙的実在であるのは、まぎれもない事実であるという側面。おなじように、すべての命のそれぞれは、過去・未来、空間までも飛び越える巨大なひとつの命の一瞬の姿であるという観念の側面です。

後者では、たとえば「巨きなりんごの中を走っている」(「青森挽歌」)と感じるとき、賢治は、時間軸を過去から未来へと駆けるすべての命の根源たる唯一にして巨大な命の存在を感じ取っていた、と解釈することが可能です。おなじく「青森挽歌」のフレーズ

  そらや愛やりんごや風 すべての勢力いみじい根源

ここのフレーズの“りんご”も「命」に置き換えられるように思えます。また、後置の「すべての」は「(すべての)そらや(すべての)愛や(すべての)りんごや(すべての)風」というように前置の要素も修飾します。すなわち「(すべての)りんご」とは「巨きなりんご」とまったく同じ観念を指し示していることになります。

 みんな限りない命です
 (「めくらぶだうと虹」)。

命を繋ぐことはすべての生物に本能としてすり込まれている大命題です。また「命ある限りどこまでもいける」というレトリックも、誇張されてはいるものの真理です。さらに、命があるからこそ、いつでも天気輪の丘がある地上に帰還できるはずなのです。

「切符とはジョバンニの命である」とする場合、ただちに、ジョバンニ≠イエスであるとは言えないので、「おかしな十ばかりの字」とは“Cor Christ”である。という命題にすこし当てはまりが悪いのですが、生きる者の個々の命は、誰もが普遍的に神に与えられた“Cor Christ”の一つである、というような演繹的な観念を導出することで解決可能と考えます。「(すべての)りんご」に対する「巨きなりんご」とまったくおなじ考え方です。

また、 “Cor Christ”は「心臓」の位置を指し示す言葉ですので、“おかしな十ばかりの字”としての“Cor Christ”が書かれているべき位置は、開いた切符の中央ではなく、ε星相当の位置、つまり四つ折をひろげた右下の位置がぴったりです。

さらに“十ばかりの字”というフレーズそのものにも“十字”のモチーフが入っています。折り目の十字、心臓の中の十字、フレーズの中の十字、都合、三つも十字があります。なんという徹底振りでしょうか。

逆にいうならば、「銀河鉄道の夜」での駅とは星座の存在を意味します。つまり、星座という文脈において、十字の右下に“Cor Christ”とあれば、それは南十字座以外を意味することはありません。

・・・つづく