「やまなし」のかばの華

三作品に共通するモチーフとして花があります。

「やまなし」ではかばの華(ヤマザクラの花)が鎮魂の意味で流されます。じつは「銀河鉄道の夜」でも華は流されています。それは“烏瓜のあかり”です。たいていの方は“烏瓜のあかり”とは小さな烏瓜の青い実の中に灯りを入れ、川に流す図をイメージしていると思います。でも、どうやら、“烏瓜のあかり”とは実ではなく花のほうらしいのです。

  草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、ある葉は青くすかし出され、
  ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのやうだとも思いました。
  (ちくま文庫宮沢賢治全集7」「銀河鉄道の夜」)

“ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて”とあり、物語の季節はどうやら夏のようです。しかし、烏瓜が実をつけるのは秋。そこで、青くすかし出される葉のような“烏瓜のあかり”というのは実ではなく花の方では、と気づきました。

実際、烏瓜といえば“瓜”という字面から実の方をイメージしてしまいます。それに実の方は日頃よく見かけるのですが、花の方を見かけるのは稀だからです。その理由は、烏瓜の花は日が落ちた宵に咲きはじめ朝にはしおれ始める花だからです。

烏瓜の花は、夏のある夜、それも一夜かぎり、子供の手の大きさの、レース状の雪の結晶構造を想起させられる星型の白い花が妖しく開きます。そして日が昇るとしおたれてしまいます。そのような咲き方をする花のため、よほど気をつけていないかぎり現代の日常生活の中で見かける機会はまずありません。

おなじような描写で“つめくさのあかり”というのがあります。“つめくさのあかり”は夕暮れに浮かび上がるツメクサの花の白で、蝋燭など可燃物による灯りではありませんので、“烏瓜のあかり”も宵闇に浮かび上がる花の白の方がむしろふさわしいはずです。

そんなふうに考えを巡らしてゆくと、“烏瓜のあかり”のイメージが、中に灯りを仕込んだちいさな烏瓜の実がたくさん川を流れ下るイメージから、川面に次々と浮かべられ白く大きく広がり流れゆく烏瓜の花束のイメージへと大きく変わりました。

また、よく見ると烏瓜の花は五角形でヒトデ状をしています。「双子の星」の第二部で、海のヒトデはもともと天上の星で、それも罪を犯して地上に落とされた“星”だったと語られています。川面に次々と浮かべられるカラスウリの花。野原に浮かび上がるツメクサの花。どちらも、銀河鉄道の右側を流れるという銀河の星々のイメージに重なってゆきます。

以下は、「銀河鉄道の夜」のラストシーンの川の描写の抜粋ですが、この描写は、ずっとファンタジックな描写なのだと思ってきました。なぜなら、流れゆく川面が静止した鏡面であるはずはないのですから、銀河が映りこむはずがないのです。しかし、星々のかわりにたくさんの“烏瓜のあかり”が流れ下っている川面ならば、まさに“銀河が巨きく写っ”たように見え、まさにこの描写の通りに見えるはずなのです。

下流の方は川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見えました
  (同上)

  あめなる花をほしと云ひ
  この世の星を花といふ。
  (ちくま文庫宮沢賢治全集7」「ひのきとひなげし」)

手持ちの資料で烏瓜のあかりへの言及を探してみましたがほとんど見つかりませんでした。みつかったのは以下の2点の資料ですが、みごとに対立してます。また、烏瓜のあかりが問題視されたことはあまりなさそうです。主要なキーワードが掲載されているはずの原子朗「賢治童話語彙事典」(國文学57年2月号)の中にもありませんでした。まあ、でも、私の烏瓜のあかりのイメージはどちらでもないのですが。

  なかでも優雅だったのはカラスウリの提灯です。お盆のころ、まだ青くて堅い実を
  とってきて中をくりぬき目鼻や口を開けて小さなローソクを差し込んだカラスウリ
  の提灯を、皆で川に流しにいったりしたものです。(板谷英紀「賢治博物誌」)

  烏瓜の実をくりぬいた中にローソクか何かを立てて、それで皮の内側から照らすの
  ではない。仕掛けは花だ。烏瓜は、本当に小さな花が、一塊りずつになって咲くの
  だが、いったいどんな生理をしているのか、暗夜の中で、ぼうっと光るのである。
  (畑山 博「銀河鉄道の夜探検ブック」)

・・・つづく