カムパネルラは天上にいけたのか
さて、「銀河鉄道の夜」は「やまなし」や「二十六夜」とはどう関連するのでしょう。
ジョバンニは、鳥捕りがいうところの、ほんとうの天上にいける切符をもっていました。だとすると、カンパネルラが持っていた切符は、ほんとうの天上行きの切符ではなかったことになります。ちなみに、初期形2、3ではカンパネルラは切符を持っていませんでした。初期形1では「ジョバンニの切符」の章そのものが現存していません。
「やまなし」では木の枝に引っかかったやまなしからいい匂いが漂っています。
「どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂ひだろう。」
(ちくま文庫「宮沢賢治全集」8)
「二十六夜」では、捨身菩薩が穂吉に手をのばしたとたん、いい匂いが漂います。
捨身菩薩のおからだは、十丈ばかりにみえそのかゞやく左手が
こっちへ招くやうに伸びたかと思うと、俄かになんとも云えない
いゝかをりがそこいらいちめんにして
(ちくま文庫「宮沢賢治全集」5)
「銀河鉄道の夜」では、青年と姉(妹)弟が出現に付随してりんごや野茨の匂いが漂います。
「なんだか苹果の匂がする。僕いま苹果のことを考へたためだろうか。」
カンパネルラが不思議さうにあたりを見回しました。
「本当に苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」
(ちくま文庫「宮沢賢治全集」7)
いい匂いとは、肉体から解き放たれた来迎される魂が発する匂いのようです。ところが、カンパネルラの登場の際、カンパネルラは匂いを発してしていません。
第一初期形末尾に、つぎのメモがあるそうです。苹果の匂いには切符とともに深い意味があることを示唆しているようです。
苹果の匂いのする前に天上の燈台守
来ること必要なり
連 青年 妹 弟
(新校本「宮沢賢治全集」第10巻童話III稿異編)
青年たちは停車場に停まった汽車から降りてゆきました。しかし、よくよく読むとカンパネルラは汽車を降りてはいません。鳥捕りとおなじように“消えて”しまっているのです。
「銀河鉄道の夜」、カンパネルラの名は、リストの超絶練習曲「ラ・カンパネラ(鐘)」からの着想だという説※があります。鐘の形、梵鐘ではなく、とくに教会などの西洋の鐘の形は巻貝の形に通ずるものがあります。カンパネルラという名が鐘のメタファであり、鐘が螺のメタファだとすると、螺とは、螺旋であり、輪廻転生を意味し、ふたたびの生まれ変わりに通ずる意味を持ちます。
ジョバンニの名に二のメタファがあるかどうかについては不明です。聖ジョバンニ(ヨハネ)との説※があります。生者と聖者を掛けているのかもしれません。(※原子朗「宮沢賢治語彙辞典」)
じつは、カムパネルラは、ジョバンニと同じように銀河鉄道に乗り合わせただけで、死者ではあるものの来迎をむかえてはいず、来迎などがこない大多数がそうであるようにふたたび現世に転生していった、という解釈も可能です。むしろ、そう解釈し、そうであるなら、第二稿のブルカニロ博士のせりふが理解できます。
「・・・そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ」
(ちくま文庫「宮沢賢治全集」7)
ジョバンニは、また、カムパネルラが消える直前にカムパネルラの意思を確認しています。なぜ、ことさら確認する必要があったのでしょうか。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねぇ。」(同)
わざわざ確認した意図とは、ジョバンニが、意識下でどこまでもカムパネルラといっしょに行けないと知覚していたということだけではなく、カムパネルラが極楽浄土へいけない存在であると知っていたという意味があるのかもしれません。
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。・・・あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはいないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とたのしそうに話しているし僕はほんたうにつらいなぁ(同)
ジョバンニが悲しいのは、ジョバンニには同伴者がいないことを意識下で知覚しているからで、また、カムパネルラが同伴者ではないことをも同じように知覚しているからだと考えられます。だからジョバンニは辛くて悲しい。人には、できないことと理解しているが望まずにいられないことのなんと多いことか。だから人は辛くて悲しい思いに苛まれるのです。
人には知能があります。知能とは、知識を活用する能力のことです。知能が人にとって達成不可能な願いや望みを生み出すことは常態です。人は、通常できることできないことを見極めるための知識を常識として身に着け行動の基準とします。そして、できることできないことの境界は分野と熟練度によって人それぞれ様々です。スポーツ選手しかり、熟練工しかり、学者しかりです。
詩「雨ニモマケズ」は、賢治がなれないこと、なれなかったことの羅列です。なのに、なぜ、詩「雨ニモマケズ」感動するのでしょうか。できないこととは理解しつつも望み願わざすにいられない賢治という人の存在の高みが読み取れ、それでも強く望み強く願い強く誓う賢治の姿がありありと見えるように読みとり感ぜられます。