アニメ 輪るピングドラム 第23話

眞悧と桃果の出会い

二人の出会いは空の孔分室ではなかった。空の孔分室での桃果の残像が真実なら、電車の中での名乗りは矛盾。電車の中での名乗りが出会いなら、空の孔分室での桃果の残像は矛盾。

昔、2000年にNHK深く潜れ」というドラマがあった。ピンドラと同じように、毎回、謎だらけ、なんだこりゃ、の連続だった。最終回、謎は謎のまま放置され、tohko「PUZZLE」という主題歌、つまり解けという制作側のメッセージを残して、おもいっきり開いたまま終わった。そして、考察が始まった。考察してゆくと、すべてのピースが収まるべきところに収まった。ドラマとしては筋が通っていたことが判明した。「生きられるんだよ」というトートロジー。それがテーマだった。そして、「銀河鉄道の夜」のモチーフも見つかった。

23話まで見て、ピンドラには論理的な精緻さは無いと思う。ドラマという論理性の他にあるのは情緒的な扇情。生存戦略ピングドラム、氷の世界、子供ブロイラー、透明な存在、などの観念的な言葉。下敷きとしての「銀河鉄道の夜」。たぶん、マーブル・ジェラートのようにそれらは一体化することなく、ほとんどの謎や秘密は開いたまま終わると予想する。



晶馬と陽毬

浜辺で迷子になった陽毬。見つけてもらったときの泣き方が、「千と千尋の神隠し」でハクのおにぎりを食べた千尋の泣き方に似ていた。千尋はでかい涙をボタボタ落とす。ハクがおにぎりにかけていた“まじない”は“浄化のまじない”。涙は千尋がこらえていた不安や恐れ。次の日、千尋が落とした涙は海になった。陽毬が流した涙。その涙は凍った心が解けた涙。その涙は夜の世界の河となる。この場面は「千と千尋の神隠し」のオマージュ。陽毬は涙の河の中で晶馬にキスをする。互いに握り締める手と手が唇の暗喩。

陽毬はすでに夜の世界にも存在している。病室を漂う雪の結晶は、これまでは星だったのところと同じ演出だが意味は不明。“いつまでも一緒”というのは、超越者(月の女神)として晶馬と常に同時に存在しているという意味か。陽毬はもうすぐ地上世界の存在ではなくなる。冠葉がテロを成功させても、陽毬という肉体は、なくなってししまうのだろう。存在するが目には見えない透明な存在。死ぬのではなく3号やエスメラスダのように透明になり見えなくなる。“ああ、なにもかもみな透明だ…”と。



苹果と晶馬

雪の降る中。晶馬に寄り添う苹果。寒々とした世界の中で、行き場をなくした2つの悲しい心と心、心臓と心臓が寄り添う。降る雪が夾雑物を覆い隠し、死に行く妹を想う悲傷の美しさと、寄り添うふたつの命のかすかなあたかかみだけを際立たせる。あの瞬間、世界には、悲しみとあたたみしか存在していない。



桃果

ペンギン帽子が、晶馬に「おはよう」と話しかけるという奇抜。あなたたちのピングドラム、ということは日記は桃果固有のピングドラムで、桃果のピングドラムが燃えてなくなったことで、晶馬と冠葉がピングドラムを得る状況が整ったということなのか。まあ、白テディが黒テディを貫いて爆発を止めるという状況になるのだろうけれど、それよりも眞悧が倒される状況が重要。


眞悧

眞悧は人が嫌い。人は箱の中に入っているから。箱の中から“助けて”と叫ぶ。眞悧には運命の乗り換えの能力はない。だから箱を人を壊す。うーん、観念的過ぎてよく解らない。

毎回、あらたな謎、謎、謎。逆に、理不尽であることが作品のテーマなのではと考えてしまう。最終回、残りたった30分でどれだけの理不尽の限りのを尽くすのか、予想もできません。ワクワクです。

 

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