作品群としての「やまなし」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」

「二十六夜」は普通の意味での"童話"ではありません。中学生以下には読めないだろうし、小学生以下では親に読んでもらっても言葉の意味が解らない。親も仏教用語の説明に困る。高校生以上でもほとんどの人が挫折することでしょう。たとえ通読できたとしても二度と読みたくならない。"摘まれない花"ならぬ"読まれない童話"です。

別な側面として、「二十六夜」を読んでいて、とくに辛いところのが、すこしずつ長くなる同じお経を繰り返し延々と読んでいかなければならないことです。伝記では、賢治が仏教を深く信仰していた人間と紹介されますが、賢治にとってさえ、人間向けのお経を繰り返し読み聞かされるのは、じつのところ"難行苦行"であったのだという証左が本作品です。

ですので「二十六夜」を書くにあたっても、かなりの"難行苦行"だったはすです。しかし、賢治は、「二十六夜」を読まされる読者にとっても"難行苦行"であることは十分に認識した上で、“演出”としてふくろうのお経を繰り返し用いたのだと思われます。

三番目の側面として、「二十六夜」のラストの列車の音は「銀河鉄道の夜」を読んでいないと理解できません。つまり、「二十六夜」は「銀河鉄道の夜」も読んでいない読者には、ただただ賢治の宗教性の強さばかりが顕現した作品というのが読後感になることでしょう。


最初に、「二十六夜」を読みやすくすると「やまなし」になる、と書きましたが、どうも逆のようです。「やまなし」を解読するための鍵が「二十六夜」という"読まれない童話"なのかもしれません。

「二十六夜」の穂吉の死とともに聞こえてくる列車の音。銀河鉄道が「来迎列車」でないならば行き先は定まりません。しかし、「来迎列車」であるのならば行き先は極楽浄土と定まります。「銀河鉄道の夜」の銀河鉄道も死者の魂を極楽浄土へと運ぶ来迎列車と解すのが一般的だと思います。

「やまなし」のクラムボンと魚のエピソードと「二十六夜」の螺蛤と小禽のエピソードの類似性から、「やまなし」と「二十六夜」の密接な関連性を導くことができました。「二十六夜」の来迎直後の列車の音と「銀河鉄道の夜」の銀河鉄道も密接な関係を持つように思えます。また、銀河鉄道に出現する"匂い"と二十六夜の“匂い”とやまなしの"匂い"の同一性からも、「やまなし」=「二十六夜」=「銀河鉄道」という同一性が導出されるように思います。

すなわち、「やまなし」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」の三作品は、あたかも来迎三尊になぞらえるように、強い関連性を持つ一群の作品群のように思えるのです。

・・・つづく