羅須地人協会
アナグラムの考察のついでに、ちょっと脱線します。
遠藤周作「わたしが・棄てた・女」、ヒロインの名を“みつ”といいます。遠藤周作氏によると、“みつ”とは“罪(つみ)”の真逆で“罪なき者=イエス・キリスト”の意だそうです。まったく同じ用法が賢治と同時代の金子みすゞ「露」にあります
誰にもいはずにおきませう。
朝のお庭のすみっこで
お花がほろりと泣いたこと
もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら、
わるいいことでもしたように、
蜜をかへしに行くでせう。
“蜜”は“罪”の真逆で“罪ではない”がメタファです。罪ではないから悪いことではない。それゆえ“わるいことでもしたように”の暗に“わるいことではない”という意味が「蜜」への修辞になりえています。
大正十二年。雑誌「童話」に投稿した童謡を西条八十に見出されたことにより、金子みすゞの活躍がはじまります。十ヶ月後、みすゞにとって最良の評者たる西条八十は突然洋行し、以後、みすゞは不遇の時代を過ごすことになります。それから約二年後、みすゞが見合い結婚した2週間後に西条八十が、やはり突然帰国します。帰国した八十は即座に帰国記念として雑誌「童話」で特別募集をかけ、その募集にみすゞが応募した作品が「露」です。
解釈すると、「お庭のすみっこ」とはみすゞの在所(山口県下関)、「お花」とはみすゞ自身。「噂」とはみすゞの結婚したこと、泣いたこと。「蜂」とは「八」すなわち西条八十。「蜜」とは八十の罪ではないという言明です。そして「誰にもいはずに」と書きつつ応募・投稿するのは矛盾です。矛盾の底にある心情は、八十の罪ではないが八十の罪でもあるというみすゞの八十への甘えと、ささやかな責任転嫁でしょう。結果、八十は「露」を第一席に選出します。八十ともあろう人が、自身に向けられたみすゞのメッセージに気づかなかったはずはありません。つまり、八十は蜜を返した、ということになるのでしょう。
長くなりましたが、ここで言いたいのは、真逆のアナグラムには、もとの言葉の意味を否定する用法があるということなのです。
かつて、恩田逸夫氏により、(羅須地人協会の)ラス「羅須」はシュラ「修羅」の逆かという問題提起がなされました。(「宮沢賢治論3」『「羅須」の語義推定』)
修羅とは人間と畜生の中間の存在なのだそうです。わたしは、修羅とは、自分は人間ではない求道者なのだ。という賢治の心境をあらわした言葉と理解しています。大正13年、詩集「春と修羅」を発表した時点の賢治の心境は、ひとりの修羅、すなわち、人間ではない、求道者であった、ということだったととらえています。
また、蛇足ですが、テレビが普及する以前の東北人は“サシスセソ”の発音が得意ではありません。“シャシィシュシェショ”の発音も苦手です。“シャシィシュシェショ”は“シャ・ス・ス・セ・ショ”と言っているように聞こえます。したがって、賢治が修羅(シュラ)と発音するとき、“スラ”と発音したように聞こえたはずです。
したがって、大正15年、教職を離れ羅須地人協会と称して農耕生活に入った時、賢治の心境は、もはや羅須であり地人である、すなわち、もはや修羅ではなく人間であり“ぎちぎちと鳴る汚い手を持つ”農民である、ということだった、と解釈できるのです。
・・・つづく