ドラマ「二十六夜待ち」

「やまなし」を読み解くためには「二十六夜」の精読が必要です。しかし、「二十六夜」を精読するには理由が必要です。

わたしが「二十六夜」を精読したきっかけは、金八先生武田鉄矢氏が「二十六夜待ち」という作品を書き、それが絵本になり、同名のテレビドラマ(主演:和久井映見)が製作・放送され、それをわたしが観たことによります。

物語は、特攻を控えた特攻隊員三人が慰安として女主人(和久井映見二役)の旅館に泊まり、翌日、出撃してゆく。彼ら特攻隊員は、出撃に際してある花の花束を受け取る。彼らはその花束を海上にまで持ってゆくことはせずに、本土の、ちょうど開聞岳のふもとに落としてゆく。その落とされた花束の花が自生し群落をつくる。このエピソードゆえに終戦後その花が「特攻花」と呼ばれるようになる。そして、地元の人間は誰もその花を摘まない・・・。(この話は、すべて武田氏の創作です)

ドラマ「二十六夜待ち」のモチーフのひとつ「特攻花」(武田氏の創作)という摘まれない花。特攻花とは何か。摘まれない花とは何か。この疑問は、武田氏が七十年代のフォーク・シンガーであったという側面から読み解けます。

誰もが知っているブラザース・フォアの歌「花はどこへいった」。乙女の胸に摘まれる花。その乙女は若者の元に、若者は戦場に、そして戦場には花が、その花はふたたび乙女に摘まれ、乙女はふたたび若者の元へ。無限連鎖です。

「摘まない花」とは、花を摘まないことで、乙女→若者→戦争→花を摘む乙女、という無限連鎖を断ち切ろうという武田氏の意思です、すなわち、“反戦”がドラマ「二十六夜待ち」のテーマです。

さらに、特攻隊員が三人であること。この“三”にドラマのもうひとつのモチーフが隠されています。ドラマ・タイトルにある「二十六夜」というのは来迎の夜のことです。来迎は極楽浄土へと導くために阿弥陀如来が死者の魂を迎えに来るとされる旧暦二十六日の夜ことで、ただしくは二十七日未明のことです。阿弥陀如来は二人の脇持を従えて来ます。これを来迎三尊といいます。これが、なぜ、特攻隊員が三人なのかという問いに対する答えになります。

「来迎」     浄土教で、念仏行者の死に臨んで、極楽浄土へ導くため阿弥
         陀仏や諸菩薩(ぼさつ)が紫雲に乗って迎えに来ること。
         迎接(ごうしよう)。

「来迎の三尊」  来迎する阿弥陀仏と観音・勢至の二菩薩(ぼさつ)。来迎三尊

「二十六夜待ち」 江戸時代、陰暦正月・七月の二六日の夜、月の出るのを待っ
         て拝むこと。月光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れると
         言い伝えられ、特に江戸高輪(たかなわ)から品川あたりにか
         けて盛んに行われた。六夜待ち

補足すると、二十六夜の月は新月の三日前の月のことで、三日月は左右が反対の形になります。三日月は右側が高い「ノ」のような形ですが、二十六夜の月は左側が高い「し」のような形になります。この月の形が西から来て東に向かうように見えることから、西方の極楽浄土から来た船と見なし、その船に乗って来迎三尊が死者を迎えにくる、というのが来迎思想です。来迎美術の代表としては京都三千院阿弥陀三尊と船形天井があります。

“特攻花”というモチーフと“二十六夜”というモチーフ、この二者と“反戦”がどこで結びつくのか、すぐには解りませんでした。が、やがて武田鉄矢さんが賢治童話をタネ本とした本を出版していることに思いいたりました。

そして、賢治のそのものずばりのタイトルの作品「二十六夜」を精読し、見つけたのが"離苦解脱"という言葉です。

物語「二十六夜」に描かれている世界は、猛禽類たるふくろうたちには業があり。その業とは他の生命を喰らわなければ自身の生命を保てないという業。次の世もその次の世もふくろうはふくろうに生まれ変わり無限に業を重ねてゆく。無限連鎖です。物語の中で、来迎とはその"業の無限連鎖を断ち"ふくろうの魂を極楽浄土へと導くイベントです。

つまり、特攻花と二十六夜というモチーフには、戦争という業の無限連鎖を絶つ、という反戦のテーマが隠されていたのです。そのことに気づいたとき、おもいがけず武田氏の賢治作品への思慕に触れた想いがしました。

「二十六夜」では、まるっきり同じふくろうのお経が延々と、そして少しずつの説話が付け加わわり、だんだん長くなりながら幾度も幾度も繰り返されます。読み手にとっては、まさに難行苦行です。物語の中でお経を聞いているふくろうたちにもあくびがもれます。

そして、物語は、ふくろうの子の死と鉄道の音とともに終わります。すなわち離苦解脱です。

 

・・・つづく