「やまなし」 クラムボンとは

いきなり核心ですが、クラムボンとはクラム(二枚貝)+ボン(坊や)の造語で「シジミの子供」または「アサリの子供」です。かぷかぷ(笑ってます)

クラムボンに関する子蟹たちの会話部分のみ抜粋します

  「クラムボンはわらつてゐたよ。」
  「クラムボンはかぷかぷわらつたよ。」
  「そんならなぜクラムボンはわらつたの。」
  「知らない。」
  「クラムボンは死んだよ。」
  「クラムボンは殺されたよ。」
  「クラムボンは死んでしまったよ……。」
  「殺されたよ。」
  「それならなぜ殺された。」
  「わからない。」
  「クラムボンはわらつたよ。」
  「わらつた。」

  (ちくま文庫宮澤賢治全集」発表形)

これまで、「クラムボン」の解釈としては“正体不明、わからない、無意味だ、解らなくていい、カニ語だ、仮名だ、”といういじけた結論がもっぱらの通説でした。なぜでしょうか。みずすまし、あめんぼう、あわ、カニの子供など、いろいろな説がありましたが、どれもこれも作品の解釈にすこしも結びつくことがなかったからです。

“だからといって貝の子供としても作品の解釈にちっとも結びつかないのではないか”と思われるかもしれません。ところが、クラムボン=貝の子供とすると、クラムボンが殺された理由を明快に説明できるのです。答えは、別の作品「二十六夜」に書いてありました。

  或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、
  心柔軟にして、唯温水を憶ふ。時に俄に身、空中にあり、
  或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。

  (同「二十六夜」より)

螺(ら)=巻貝、蛤(こう)=二枚貝の意味です。クラムボンクラムボンだからという個人的な理由で殺されるのではありません。貝だからという演繹的な理由で、ついばまれ殺されるのです。そして、クラムボンはふたたび貝に転生し、ふたたび笑うのです。

さらに、「やまなし」魚がカワセミに捕らえられる部分を抜粋すると、

  「お魚はなぜあゝ行ったり来たりするの。」
  「何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。」
  「とってるの。」
  「うん。」
  「お魚は……。」
  「どうしたい。ぶるぶるふるえてゐるぢゃないか。」
  「お父さん、いまをかしなものが来たよ。」
  「どんなもんだ。」
  「青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの。
   それが来たらお魚が上へのぼつて行ったよ。」

これに相当する「二十六夜」の部分は

  汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て、小禽の家に至る。
  時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、
  唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍して之を握む。利爪深く
  その身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ち之を
  裂きて擅に貪食す。

ここで“汝”というのはフクロウのことです。フクロウが夜ちいさな鳥(小禽)をその爪にかける描写です。爪の鋭さがカワセミの嘴の鋭さと重なります。

「やまなし」は、文学作品として、とてもポテンシャルが高い作品です。「やまなし」という作品だけで解釈しようとすると、ストーリーの持つ意味や、登場する事物の持つ意味のそれぞれが発散するため、作品意図が圧倒的に捕らえにくい。というより、捕らえられない。いくらでも解釈のしようがある。

ところが、クラムボン=螺蛤という作品間の繋がりを見つけてしまうと、「二十六夜」が「やまなし」のオリジナルではないか、という感を強く持つようになります。「二十六夜」の難読さ、くどさ、特殊性、個別性をそぎ落としていって、不条理な死をとげた“死者”を"やまなし"に置き換えて流す。そして、"やまなし"に置き換わった死者を迎える来迎。それが「やまなし」という作品ではないかということです。

幻燈の一枚目の終わり、かばの花が流されます。かばとはヤマザクラのことで、かばの花を流すというのは鎮魂の意味があるのだとか。、カワセミに捕食された魚の葬送の意味でしょうか。また、幻燈の二枚目に登場する“やまなし”はりんごと同じバラ科の植物の果実で、別名を「やまりんご」あるいは「こりんご」というそうです。やまなしはりんごのような匂いがするのかもしれません。

さらに、「二十六夜」には音だけの登場ですが銀河鉄道らしきものが出てきます。賢治作品で鉄道車両がでてくると、ついと「匂い」がしてくるように錯覚してしまうのですが、たとえば青森挽歌にでてくる巨きなりんご、その匂いです。

数十年前まで、鉄道車両には蒸気機関車が出す石炭の煙の匂いが染み付いていました。賢治はその鉄道車両独特の匂いを“りんごのいい匂い”としたのかもしれません。「銀河鉄道の夜」では、北の海で遭難したらしい子供連れが匂いをまとって現れますし、銀河鉄道の中で食べた物は毛穴からいい匂いになって散ってしまいます。「やまなし」は「銀河鉄道の夜」とも“匂い”という共通のアイデンテティで繋がるように思えます。

「二十六夜」では穂吉の死と同時に銀河鉄道が発車しました。「やまなし」の幻燈の二枚目、"やまなしが川に落ちる”というのは誰かの死を暗示しているようです、とすると、"やまなし"に暗示される誰かとは・・・

「やまなし」という作品が岩手毎日新聞に発表されたのは大正12年4月。そして初期形「やまなし」の幻燈の二枚目で、やまなしが谷川に落ちたのは11月の出来事です。賢治の妹としが永眠したのも大正11年11月のことでした。

 

・・・つづく