鳥捕りとジョバンニ父のアナロジー

チョコレートよりもおいしいお菓子を差し出す鳥捕り。銀河鉄道は、イギリスとタイタニック沈没位置の中間を飛行中です。ちょうどアイスランド上空にさしかかるあたりです。

鳥捕りの押し葉は、ジョバンニたちの食感では、ぽくぽくと固めた雪を食べているかのような擬音で表現されるお菓子です。銀河鉄道のレールは空の上。鳥捕りが曰く、鳥は天の川の砂が凝ったもの。その天の川の砂の上に降りた鳥は、雪のように地面に溶けてゆきます。雪のお菓子。天上のアイスクリームです。

また、鳥捕りとは鷲のことだという説があります。自身を「わっしは・・・」と表現したり、ちょうど鷲の停車場あたりでいなくなったり。また、鷺や雁など他の鳥を捕食する鳥というところからの連想のようですです。

そして、わたしは未見なのですが、鳥捕りは父性を象徴しているという説もあるそうです。ただし、わたしの二枚貝説では、頻出するある言葉をキーワードとすると、鳥取りとジョバンニの父とを、直接、結びつけることができます。

ラッコの食性を思い出してみましょう。広辞苑によると、ラッコの好物は、あわび、はまぐり、うに、えび、かに。ここで、あわびは巻貝の一種で、はまぐりは二枚貝の一種であることに注目します。すなわち“螺蛤”です。ラッコは北太平洋沿岸に生息し、鳥と同様に“螺蛤”の殺生を繰り返す動物という存在、ということになります。以前、池袋の国際水族館にやってきたラッコの姿がテレビで盛んに放送されたことがありました。テレビに映ったラッコは、丁度、食事中の画像が多かったように記憶しています。

ジョバンニの父は北太平洋の海で漁師を生業としているようです。そして、ラッコを捕らえて殺し毛皮を取ることもジョバンニの父の仕事の内のようです。鳥取りは鳥を捕らえ押し葉にするのが職業です。鳥は、「二十六夜」と「やまなし」の両作品で“螺蛤”の殺生を繰り返す象徴的な存在です。鳥取りとジョバンニ父は、“螺蛤”をキーワードとする場合、その存在の職業と行為の類似性から、まったく同等の存在ということになります。

また、鳥取り=ジョバンニ父ならば、なぜ、ジョバンニの母は病気なのでしょうか。ひとつの可能性として因果律に思い至ります。ジョバンニ父はラッコ猟を行うことで殺生の罪を重ねている。因果応報。罪の報いは誰かが受けなければならない。その罰を一身に受けているのがジョバンニの母である、「銀河鉄道の夜」にはそういう構図もあると分析できると思います。

この殺生の罪と罰という因果律の構図の根底には、賢治、とし、賢治の母の三者結核病祖を持っていたという事実があると思います。結核の罹患はじつは罰であり、それは自らが犯した罪ゆえの罰ではなく、父が犯している罪の罰であり、その罰を代わって受けている、という心理があるように思えます。

賢治が肋膜(結核)と診断されるのは盛岡高等農林四年の大正七年。同年、賢治は身延山に行き、菜食も始めています。賢治の仏教信仰はこのころ本格的に始まった、とは伊藤光弥氏が指摘するところです。そして、賢治は父政次郎さんと激しく対立して家出し、トシの発病の報に接して帰花。やがて賢治は、トシの枕頭で父性が罪を犯し家族がその罰を受けるという物語を書いたと、いうところでしょうか。

なにがどうでもなんでもかんでも「とうちゃんが悪い」というのは非論理による責任転嫁があるようです。なんと幼児的な発想でしょう。というよりも、結核死の予感に直面した心の平衡を支えきれなかった賢治の深層心理が、他者に責任転嫁することで心の平衡を得ようとしていたのかもしれません。

・・・つづく

参考:伊藤光弥「イーハトーヴの植物学―花壇に秘められた宮沢賢治の生涯」洋々社 2001