嵐山光三郎「古本買い 十八番勝負」集英社新書2005年6月

この本は99.8%宮澤賢治フリークには無関係な本です。しかし、p143の左半分のみは読むに値すると思います。その部分とは嵐山氏が小倉豊文『宮沢賢治雨ニモマケズ手帳」研究』を拾い読みした部分で、次のように記しています。

 私は、ヒドリは東北地方でいう「忌日=ヒドリ」のことで、
 その人になんらかの悲しみがあった日をさすと考えている。

嵐山氏のいう東北地方とはどこなのか、なぜ、岩手県地方の賢治フリークの方々がこの方言に気が付かなかったのか、などなど疑問は残るのですが。小倉氏のヒデリ(日照り)の誤謬説、ヒドリ(日取り、日払い労働)、ヒトリ(一人)などより、意味が通ると思います。

 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ

ヒドリノトキをサムサノナツの対句として読めることは否定しません。でも、忌日説を採用するなら対句としなくてもよい行です。ただし、そうなると私的な事情で涙を流すわけですから、アラユルコトヲ/ジブンノコトヲカンジョウニ/入レズニとは矛盾することになります。

ナミダが私的な悲傷の涙でないのならば、なんの涙なのでしょう。公的な涙とでもいえばいいのでしょうか。しかし、ナミダをあくまで公的な涙であると解釈する方々というのは、戦前、「雨ニモマケズ」を体制側の教材として使った方々と同じ精神構造の持ち主のように感じます。

雨ニモマケズ」が、一切の破綻のない美辞麗句の羅列による誓いの詞であると解釈するのと、「雨ニモマケズ」とは、美辞麗句の羅列による誓いの詞であるが、一行だけ叙情が入っていると解釈するのとではどちらがお好みでしょうか。