中二病でも恋がしたい Episode VII「追憶の・・・ 楽園喪失」
「けいおん!」のような京アニ得意のライト・コメディと思って暇つぶし程度に見ていたのですが、思わぬ深いイメージに引きこまれました。
六花の中二病の始まり。父の死を知らされた日。夜の海の向こう、暗い海と夜空の境界に見た光の連なり。六花は、父と自分を隔てる“不可視境界線”の存在を確信する。
死と生を分ける境界線。目には見えるはずもない観念上の境界線。六花は、不可視境界線の存在を信ずることで、死んだ父を境界線の向こう側に実在する存在と信じた。父は死んではいるが存在しているはず。死んではいるが父はどこにも存在しなくなったわけではない。父は不可視境界線の向こう側に存在している。したがって、墓に入っているのは偽物。ニセパパ。というわけでニセサマーは伏線臭い。
勇太を連れて行ったのは、二年前まで六花が父母と住んでいた実家。すでに家屋は取り壊され、整地された空き地に売り地の看板が立っていた。そして、一面のマツヨイグサの群生。
瞬間、ふと思い出したのが「春と修羅」のとしのつぶやき。「黄色な花こ…」。落ち着いて考えてみると、マツヨイグサ以外の賢治キーワードは見つからないので、「中二病…」という作品には賢治ワールドのイメージはないのだろうと思います。
宵に開き朝にしぼむといわれるマツヨイグサの花。マツヨイグサの群生は連なる光のメタファ。暗い海と夜空の境界にあった光の連なりと同じイメージ。今宵、六花は、あの夜たどり着きようもなかった連なる光の境界線の上に立っていることになる。
眼帯の間から一筋の涙が流れる。何かが解けたのだろうか、六花の中に何が凍っていたのだろうか。
「オホーツク挽歌」
ほんたうにその夢の中のひとくさりは
かん護とかなしみとにつかれて睡ってゐた
おしげ子たちのあけがたのなかに
ぼんやりとしてはいってきた
《黄いろな花こ おらもとるべがな》
[北上川は螢気をながしィ]
(まあ大きなバッタカップ!)
(ねえあれつきみさうだねえ)
(はははは)
(学名は何ていふのよ)
(学名なんかうるさいだらう)
(だって普通のことばでは
属やなにかも知れないわ)
(アノテララマーキアナ何とかっていふんだ)
中略
(まああたし
ラマーキアナの花粉でいっぱいだわ)
生と死の境界線というキーワードでもう一つ思い出したのが、深田恭子の出世作、15年前のフジテレビのドラマ「神様、もう少しだけ」の冒頭の独白。
人は皆、生まれた時から死にかかっているんだ。
星の降る夜、いつか、遠い来世で俺を待っている恋人に聞いてみたい。
お前は今、幸せか。
生きたがっているのか、死にたがっているのか。
生と死の淵はたった五十センチのフェンスの幅よりももっと狭くて、
それを飛び越す一瞬はビルの隙間に落ちる流れ星のひとまたぎだ。
(「神様、もうすこしだけ」浅野妙子 角川書店 1998)
そういえば、あのドラマは、前半、Niftyのドラマ板で轟々たる批難の中にあった。あれに較べると今の嫌韓ブームなどおとなしいくらいに感じてしまう。当時の全国紙の投書欄もストーリーについて過激に批判する投書ばかりだった。新聞に掲載される投書の内容はそのまま新聞社の意向を示している。つまり、あのドラマは、日本を代表するジャーナリズムからの激烈な批判を受けていたことになる。
燃え続けるにもエネルギーがいる。劫火のような批判の渦が沈静化した直後、なんと、脚本はHIVに感染したヒロインを妊娠させる。わたし自身、あの回を受け止めるのに一週間近くかかった。同時に、脚本家浅野妙子の全力を感じた。あのドラマは、結局、“ヒロインが一番の幸せを探し見つける”という物語だったが、あのドラマも賢治ワールドには関係なかったと思います。
関係ない話ばかりですいません。
六花の中二病の始まり。父の死を知らされた日。夜の海の向こう、暗い海と夜空の境界に見た光の連なり。六花は、父と自分を隔てる“不可視境界線”の存在を確信する。
死と生を分ける境界線。目には見えるはずもない観念上の境界線。六花は、不可視境界線の存在を信ずることで、死んだ父を境界線の向こう側に実在する存在と信じた。父は死んではいるが存在しているはず。死んではいるが父はどこにも存在しなくなったわけではない。父は不可視境界線の向こう側に存在している。したがって、墓に入っているのは偽物。ニセパパ。というわけでニセサマーは伏線臭い。
勇太を連れて行ったのは、二年前まで六花が父母と住んでいた実家。すでに家屋は取り壊され、整地された空き地に売り地の看板が立っていた。そして、一面のマツヨイグサの群生。
瞬間、ふと思い出したのが「春と修羅」のとしのつぶやき。「黄色な花こ…」。落ち着いて考えてみると、マツヨイグサ以外の賢治キーワードは見つからないので、「中二病…」という作品には賢治ワールドのイメージはないのだろうと思います。
宵に開き朝にしぼむといわれるマツヨイグサの花。マツヨイグサの群生は連なる光のメタファ。暗い海と夜空の境界にあった光の連なりと同じイメージ。今宵、六花は、あの夜たどり着きようもなかった連なる光の境界線の上に立っていることになる。
眼帯の間から一筋の涙が流れる。何かが解けたのだろうか、六花の中に何が凍っていたのだろうか。
「オホーツク挽歌」
ほんたうにその夢の中のひとくさりは
かん護とかなしみとにつかれて睡ってゐた
おしげ子たちのあけがたのなかに
ぼんやりとしてはいってきた
《黄いろな花こ おらもとるべがな》
[北上川は螢気をながしィ]
(まあ大きなバッタカップ!)
(ねえあれつきみさうだねえ)
(はははは)
(学名は何ていふのよ)
(学名なんかうるさいだらう)
(だって普通のことばでは
属やなにかも知れないわ)
(アノテララマーキアナ何とかっていふんだ)
中略
(まああたし
ラマーキアナの花粉でいっぱいだわ)
生と死の境界線というキーワードでもう一つ思い出したのが、深田恭子の出世作、15年前のフジテレビのドラマ「神様、もう少しだけ」の冒頭の独白。
人は皆、生まれた時から死にかかっているんだ。
星の降る夜、いつか、遠い来世で俺を待っている恋人に聞いてみたい。
お前は今、幸せか。
生きたがっているのか、死にたがっているのか。
生と死の淵はたった五十センチのフェンスの幅よりももっと狭くて、
それを飛び越す一瞬はビルの隙間に落ちる流れ星のひとまたぎだ。
(「神様、もうすこしだけ」浅野妙子 角川書店 1998)
そういえば、あのドラマは、前半、Niftyのドラマ板で轟々たる批難の中にあった。あれに較べると今の嫌韓ブームなどおとなしいくらいに感じてしまう。当時の全国紙の投書欄もストーリーについて過激に批判する投書ばかりだった。新聞に掲載される投書の内容はそのまま新聞社の意向を示している。つまり、あのドラマは、日本を代表するジャーナリズムからの激烈な批判を受けていたことになる。
燃え続けるにもエネルギーがいる。劫火のような批判の渦が沈静化した直後、なんと、脚本はHIVに感染したヒロインを妊娠させる。わたし自身、あの回を受け止めるのに一週間近くかかった。同時に、脚本家浅野妙子の全力を感じた。あのドラマは、結局、“ヒロインが一番の幸せを探し見つける”という物語だったが、あのドラマも賢治ワールドには関係なかったと思います。
関係ない話ばかりですいません。