道に大きな水溜り

賢治とは関係ないのですが、日曜日、なにげなくBS2「ニッポン全国短歌日和」を見ていて、久々に感動したので備忘のために書いておきます。 http://www.nhk.or.jp/bs-tankahaiku/

  みずがめは
  目立たぬ星座
  恋人は
  したたる水の
  あたりを見ている
   (壬生キヨム)

これは七夕歌(しちせきか)だと直感しました。星座という文脈での“したたる水”に天の川を連想しました。そして、天の川に恋人とくれば、刻は七夕です。

星図早見で確認すると、それぞれの星座は、

  みずがめ座ーわし座(彦星)ー天の川ーこと座(織姫)

という並びになっています。この歌にあてはめると、わし座が天の川の対岸のこと座を見つめ、みずがめ座はわし座の背中を見つめているという位置関係になっています。

また、すこし淫靡な意味になりますが、“水”は女性の暗喩でもあります。通常、みずがめ座は水瓶を持った少年の絵があてられますが、ここは女性でかまわないと思います。すると、恋人というのは男性となり彦星とも合致します。そして、その男性が見ているのは水の近辺。水そのものではなくとも、“水”という単語を使ったことで、対象は女性なのだと気づかされます。

普通、七夕歌に登場する人物は彦星と織姫になぞらえられた二人だけです。ところが、この歌では三人目が登場します。この点がこの歌の七夕歌として秀逸な点ではないでしょうか。

その三人目は女性で主人公です。その女性は、織姫をみつめる彦星の背中をみつめている位置関係にあります。主人公は、恋人と表現しながらも、その男性に自分を見てもらえていないのだと思います。主人公と恋人の間には二人を隔てる障害(天の川)などないにもかかわらず、主人公は、恋しい人に見てもらえない、あるいは、気づいてもらえない。

なぜか。“目立たぬ”という形容詞のがその理由になります。恋しい人がいる。けれども、恋しい人のまなざしは他の女性に向けられている。自分の存在は気づいてすらもらえない。それは、自分が女性(水)として“目立たない”からだと。

みずがめ座に自身を仮託した女性の、恋しい人を見つめるまなざしとそのまなざしにこめられた悲しい自覚がせつないです。この歌の詩情は“目立たぬ星座”にあると思います。



もうひとつ、捨てがたいのが次の歌です。予選で上の「みづがめは~」に敗退した歌です。わたしは、どちらの歌も秀逸と感じました。

  ありふれた
  道に大きな
  水溜まり
  次はいつごろ
  恋をしようか
   (山内佳織)

これは、反語を駆使した歌です。“ありふれた恋”。傍からみれば、恋なんてありふれていますが、当事者にとっては、恋をしている最中は、その恋にのめりこめば込むほど、一世一代の恋と言っていい激情の中にいます。この歌の主人公は、その激情にエンドマークを付けたばかり。おそらくは次の恋などと思い至ろうはずもありません。いだききれない程の未練と後悔と苦悩と悲しみを抱えて、とめどない涙があふれている。そういう情景を詠い上げた歌だと思います。

“水溜り”というのもある意味、反語です。それもレトリックがかなり効いた反語だと思います。実際、どんなに涙をながしたところで“道に大きな水溜り”ができるはずもありません。しかし、この“水溜り”はとめどないほどの失恋の涙が作るであろう“水溜り”なのです。ありふれた恋と自嘲しながら、“水溜り”が含意する涙の量の多さが、この恋の激情の強さを隠しています。

  ありふれてなんかない
  涙があふれてとまらない
  もう恋なんてしない

この歌の詩情は“道に大きな水溜り”の部分にあると思います。

どちらの歌も秀逸だと思いますが、わたしは、どちらかと言えば、この「ありふれた~」のほうが好きです。