野ブタ。をプロデュース -女王の教室-

30日と31日の「女王の教室」のテロップを見て驚きました。スペシャルとしての和美と由介のトーク場面のカメラが「野ブタ。」の久坂保さん。なんででしょうね。「女王の教室」には岩本Dがサブとして参加してますけれど、「女王の教室」に特に岩本演出が重要だったということはなかったように思います。あるとすると「野ブタ。」が短縮になったことへの補償ということなんでしょうか。


女王の教室」第4話で、校舎の屋上に赤い風船がひとつ落ちていて雨に打たれているシーンがあり、岩本演出かなとおもったのですが、メインの大塚恭二演出でした。「女王の教室」でのサブリミナルな演出はこれくらいでした。

ただ、この演出は作品のメインモチーフを表していて、和美の白がマヤの黒とは正反対の色であると同時に、和美の持ち物、傘、ランドセル、着ている物のワンポイント、ズック、トートバッグなどの“赤”とつながりを持ちます。そしてなにより、重要なのは、タイトルの「女王」という題字の“赤”とのリンクです。要するに、赤の“女王”とは、マヤのことではなくて、和美のことだと演出が言っているのです。

黒い存在であるマヤ、白い存在であると同時に女王という役割を象徴する赤を持つ和美。「女王の教室」のモチーフはたったこれだけです。たったひとつのモチーフが最後まで貫いていました。くらべて「野ブタ。」では、たくさんのモチーフが出てきました。鳥、カラス天狗、雪女、狐、狸、ドラキュラ、天使、悪魔、アンパンマン、タイヤキ君、魔女、死神、サンタ。けれど、すべてのモチーフが最後まで一貫せず未消化でした。

野ブタ。」は、話の方も一貫していません。いじめ物→恋愛物→サスペンス(大反感)→ファンタジー→友情物。あっと驚くというより、なんだこりゃといった話の展開は、それまでの作品の印象を訂正しつつ、ついててゆくのが大変でした。


女王の教室」は、遊川脚本もわかりやすくおもしろく一貫していましたし、第4話での赤い風船のシーンから、赤のモチーフに沿って最後までひとつのイメージを維持して作品を鑑賞することができました。

ただ、残念に思うのは、“マヤがいい先生である”という結論は出さないほうが面白かったかもしれないと思う点です。“マヤはいい先生なのか”という命題のままの方が作品としては生きたと思います。作品としては、セリフや演出や演技で答えを暗に埋め込んでいればいいし、作品が投げかけた命題に答えるのは視聴者でいいと思うのです。

その点では「野ブタ。」はハマり所満載です。なんだこりゃ、こりゃなんだの連続。答えを見つけるのは視聴者の役目。作品が明示的答えを与えようとして失敗したのが、犯人暴露です。犯人暴露の幼稚さは、そこまでの作品の深さも否定しました。いっそのこと作品中では犯人を明かさないほうがよかったと思います。


女王の教室」で残念に思うのがもうひとつ。このところTVドラマではずっと悪役不在の状態が続いています。昔々のドラマや映画の悪役たちは、作品中で悪役たちなりの哲学や思想や倫理を貫いているのです。悪役は悪に染まって生きてきたし、悪意を思考できなければ存在が危うくなる。悪は悪として存在していました。ところが、「女王の教室」では、実は、悪ではなく偽悪であるという話になっていました。甘いと思います。今の教育のように甘い。悪が偽悪であるのは、この作品の主張からすると矛盾だと思います。


“マヤはいい先生か“と問われれば、わたしは“否”と答えます。マヤのやり方は、生徒に対しても教師に対しても厳しすぎます。ひとことでいうと極端です。マヤの教育は、和美というやはり過剰なほど善意的に理解しようという姿勢の生徒がいてはじめて成立します。和美がいなければ、マヤの教育方法は生徒たちの反感を生み出すだけでしょう。そして、積み重なる反感は悪意を形成することになるでしょう。

言ってみれば、極端な教師と極端な生徒とのバランスの上で成立しているドラマです。ドラマとしてならもちろんありです。しかし、現実的には極端すぎて不可能。一般の教師がマヤのような教師であることを強いられる、と仮定するとわかります。だれもマヤのようには振舞えない。それが現実だと思います。非現実的な存在を創作し、それを善いと評価する。なんのために。製作側は、現在の教育に問題提起するためと答えるでしょう。でも、この作品が行っているのは、非現実的なほどの極端な仮定をもとに中身のない問題提起しているにすぎません。端的にいうと空論です。

つまり、「女王の教室」は、ドラマとしては面白いし一貫している。けれども作品としての中身がありません。


ならば、「野ブタ。」はどうだったかというと、こちらは、信子が極端から発して普通を目指すドラマです。提示される命題もささやかなものです。「生きられる世界はあるのか」「笑って生きるられるのか」「出会いは奇跡なのか」「人は変われるのか」「人は理解できるのか」「嘘はつきとおせるのか」「友情は真実を越えられるのか」「人のためにというのは自分を大事することと離反するのか」

それらの命題に“真”と答えられるとき、「野ブタ。」の作品世界では、普通の“しあわせ”のタネが手に入るのです。

野ブタ。」は演出も脚本も一貫していないうえに瑕疵もある。大失敗もしている。編集もところどころおかしい。でも、「野ブタ。」という作品が言わんとしていることは理解できますし、その主張に首肯できます。

野ブタ。」 :本物のあんこがたくさん詰まったタイヤキ、それもでかいコゲコゲのタイヤキ。
「女王の教室」:竹輪。高級な材料をしっかりつかった竹輪。

野ブタ語で両作品を評価すると、そんなところでしょうか。


蛇足ですが、「女王の教室スペシャルがあるとか。うらやましいです(笑)

野ブタ。」の方も、なんとかしてもらえないものでしょうか。鳥のモチーフなんかぜんぜん未消化です。「女王の教室」の“赤”にちなんで赤い鳥「カナリヤ」の話なんかどうでしょう。赤い鳥は“歌”を忘れているのです。