野ブタ。をプロデュース -まり子と修二-

今回、とくにまり子と修二シーンでは、ふたりのそれぞれの心情が丁寧に演出なされていたと思います。演出道具としての扉と窓。ふたりの間にある距離とふたりの体の向きという基本にのっとった演出手法です。

ふたりのシーンは3シーンあって、

(a) 昼、まり子が2Bの教室に修二を誘いに来るシーン(扉と距離と体の向き)

足取り重く階段を下りてきたまり子が、開いた教室の扉から修二の背中に呼びかける。足取りを重くしているのは修二はまり子のことを好きなのかという疑惑の重さ。開いた扉は修二の表向きの顔。表向きではあっても、修二はまり子の方は向いていない。まり子が二度よびかけてやっと振り向いてもらえた。修二はまり子より信子の方に関心がある。

(b) 廊下でジャージ姿のまり子から問い詰められるシーン(距離と体の向き)

石坂に告白されたことを継げるとき、まり子は修二に背を向けゆっくり階段を上ってゆく。まり子にとって、石坂のことは核心ではないからです。修二も距離を保ってついてゆく。まり子が振り向いて核心の問いかけを修二に投げる。

  まり子「あたしたち、つきあってるのかな」

一瞬の静止後、駆け寄る修二、でも、修二の口から出たのは石坂批判。まりこ、顔を横に向ける。修二も顔を横に向けている。まりこが顔を横に向けるのは、まり子が発した問いへの答えじゃなかったからです。

  修二 「なんか三又とか当たり前でやるとかさ」

修二がまり子と信子の二又だという伏線。

  まり子「またいつものように調子よくごまかすつもり?
      つきあってるかどうか人に言えないって変じゃない?
      ・・・変だよ」

まり子が階段を上がるが、修二は動けない。

  まり子「あたし、このままじゃ苦しいよ。修二は苦しくないの?

まり子が階段を駆け上がる。修二は動けない。修二の足をとめているのは、まり子を苦しめているという罪の重さ。

(c) 祝日、朝錬に来たまり子に本心を明かすシーン(窓と扉と距離と体の向き)

教室の扉が開いているにもかかわらず、わざわざ窓を開けるまり子。窓を開けるというのは、ごくごくオーセンティックな演出手法のひとつで、心を開くことを意味します。

開いていた扉と閉じていた窓。表向きの顔と本当の心。まり子の窓を開ける行為は、修二に、心を開いて本当のことを聞かせてほしいと言ったのと同じ意味になるのです。でも、ふたたび窓を閉じる。答えを聞きたい、けれど聞きたくないという矛盾したメタファ。

修二がまり子を呼び止める。ふたりの間には教室ひとつ分の距離。正対しているのはごまかしがないという意志。まり子も修二もその距離を詰めようとはしない。距離の遠さは、まり子にとっては喪失への覚悟、修二にとっては離別への決断を意味します。

修二の口から発せられた言葉は、まり子が予期していた答え、聞きたくなかった答え。覚悟があったからまり子は取り乱さずにすんだ。ごめんといって背中をむけて立ち去る修二。まり子には、修二の背中を追うことができない。修二の言葉が壁になってるから。


修二はまり子のことは好きにならないといったけれど、嫌いだとはいっていません。それが、まり子にとって唯一の救いのような気がします。まり子の恋心はまり子にどんな行動をとらせるのでしょう。