野ブタ。をプロデュース -花の街-

「花の街」は2ちゃんねるで知りました。2ちゃんねるでレスをつけるのが本当なんですが、長文はいじめられるので、こちらに書きます。


信子が歌っていた「花の街」。なんとも解釈が難しい歌詞の歌です。けれど、シーンにあてはめるのはそんなに難しくはないようにおもえます。

中傷チラシを裂いて作っていたリボンが歌詞の1番、リボンで作った花が2番。すると、3番、ひとり泣いていたのが信子になります。

信子は泣いていたのですね。歌声に聞こえたのは泣き声だったでしょうか。涙は流していませんでした。信子は泣いていても涙は流さないのでしょうか。信子の涙は、すでに枯れ果ててしまっているのでしょうか。

いいえ、枯れ果ててしまっているのではありません。凍りついてしまっているんです。涙すら凍りつく雪女。文化祭の雪女の姿は、信子の自己認識の姿だったのです。


夜の児童公園で思い出すのが、「白線流し」SP1の回転する遊具があった夕暮れの児童公園のシーンです。

夕暮れは、子供の時間の終わり、大人の時間の始まりを意味します。「白線流し」の本間Pは、そのシーンの意味を「はやく大人になりたい、でも子供のままでいたいという矛盾したメタファ」と解説しました。夜が大人のメタファ、児童公園が子供のメタファなのです。そして、第5話の演出とカメラは、なぜか、「白線流し」SP1と同じ岩本仁志さんと久坂保さんです。

第2話、制服に“ブス”といたずら書きされた信子が滑り台の上にいたシーンがありました。あのシーンは昼のシーンでした。昼の児童公園=子供のメタファですから、昼のシーンでの信子は、“子供の信子”です。いっぽう、“夜”と“児童公園”が“大人”と“子供”を意味しているのだとしたら、夜のシーンには“子供の信子”と“大人の信子”のふたりがいたことになります。

“子供の信子”は中傷チラシでいじめられた“いじめられっ子の信子”でいいと思います。ならば、“大人の信子”とは?

修二の期待に応えたくても、「好きでもない人とつきあえない」のは当然で、でも、それゆえに修二に見捨てられた“期待に応えられない信子”。そこいらへんが“大人の信子”の意味ではないでしょうか

つまり、“いじめられっ子の信子”と“期待に応えられない信子”という二重性に押しつぶされそうになっている信子。それが夜の児童公園シーンの信子です。


修二と彰は、どれほどの時間、どれほどの思いで信子を見ていたのでしょうか。信子は、どれほどの時間、中傷チラシをリボンに裂いて花に作りあげていたのでしょうか。“ひとりで泣きながら”押しつぶされそうになりながらも作りつづけた花。花は落ちてはねた涙の形をしていました。

泣きながらも創りあげるという存在、実は、あのシーンは、クリエータたる信子の面目躍如のシーンでもあったのですね。


タロ吉相手に笑顔の練習。でもね、ノブタ、笑顔の練習は、鏡の前で“ニ”音の発音を繰り返すほうが効果的だと思うよ。ニニニニニニ・・・。