野ブタ。をプロデュース -パンくずの誘い-

信子「できれば一人残らずしあわせになってほしい」
修二「いや、そりゃ無理だろ」
いやいや、そうそう無理でもないのかもしれないのです。掘北さんは、このせりふをとてもやさしく言っています。いつもの信子の低音の口調ではなく、堀北さん自身から発した言葉のようにかろやかにやさしく語っているように感じます。

宮沢賢治の有名なフレーズに「世界がぜんたい幸せにならなければ個人の幸せはありえない」というのがあります。ぜんたいとは、いったいぜんたいのぜんたいで、だいたいくらいの意味です。それはそうだとしても、賢治においては全体の幸せ→個の幸せという幸せの演繹的な方向性は変わりません。

でも、そうでしょうか。信子は、全体の幸せを願いつつも個の幸せを否定してはいません。

天空の城ラピュタ」のエンディングの歌詞に「たくさんの灯がなつかしいのは、そのどれかひとつに君がいるから」というのがあります。ひとつの灯の下にある幸せが、他のたくさんの灯の上にも広がり全体が幸せに包まれるイメージ。この歌の中では、幸せは個の幸せ→全体の幸せという帰納的な方向性を持つのです。

ところはつえ「にゃんころりん」(古い四コマ漫画です)の中で主人公のにゃんこが星を数える話があります。一コマ目でにゃんこが一番星を数え、二コマ目で二番星を数え、三コマ目で沈黙。四コマ目で「数え切れないや」と言う。にゃんこは数をふたつまでしか数えられないんですね。にゃんこの世界では、たかだか3個を超えるの幸せがあれば世界は数え切れないほどの幸せに満ちてゆくわけです。

自分が知覚できる範囲の中で、自分がしあわせで、まわりがみんながしあわせそうであれば、世界はしあわせになるのだと思います。

信子が転校してくる前の修二の世界がそうでした。修二の世界はそこそこ幸せで平和でした。そこに、いじめられっこ信子が現れバンドーにいじめられ、かくて修二の世界はかき乱されます。そこで修二は、修二の世界を元に戻そうと「野ブタ。プロデュース」を始めるわけです。はからずも、修二の動機は信子のいう「一人残らずしあわせになってほしい」という願いと一致しているのです。

わたしも、幸せとは個から全体へという帰納的な方向性を持つと思っています。



修二はなぜ嘘をつくのでしょうか。修二の嘘は相手を思いやっての嘘。修二の嘘の底には思いやりがあることを信子は知っています。たぶん、彰もそれとはしらず知っているはずです。信子に右ストレートで叩き込まれたから(笑)。

「蒼井がそんなことするわけないじゃん、お前の友達なんだしさ」は信子を思いやっての嘘。だから、「きょう迎えにいってやるよって」「ちょーおいしかったよ。エビ団子」はまり子を思いやっての嘘かもしれません。

ぽろぽろ、メロンパンのくずが落ちる。同じようなシーンが「神様、もう少しだけ」にありました。友人にエイズウィルスに感染したことを悟られ、ひとりぼっちになったヒロインがパンくずでハトを集めるシーン。ひとが寄り付かないさびしさをハトを集めることでまぎらわそうとする。

パンくずに誘われて現れるのが、まり子。まり子はそっと弁当を置く。修二をおどろかせまいとしているように。弁当はパンくずと同じ心理。ただし、パンくずは相手は特定せず誰でもいいことをあらわしますが、まり子弁当は明確に修二に対する誘いです。

修二「俺にさ、今後、いっさい話しかけるんじゃないぞ」
彰 「なんで」

この修二のセリフ、じつは、まり子に言っているセリフなんです。まり子は現れたけれど、修二に声をかけずに立ち去ってしまった。修二はまり子に声をかけてほしかったんです。その心理の裏返しで「話しかけるんじゃないぞ」です。だから彰にも信子にも唐突でちんぷんかんぷんなのです。


今回の修二、これまでにもまして、べたくた信子をさわりまくり。信子に抱きしめられて修二のオスがヒートしちゃったみたいです。サカリがついちゃったってことです。落ち込んでたとはいえ、信子に抱きしめられた感触もなかなか捨てがたかったよう。修二が信子を触るのは、友情でなく恋情でなく愛情でなく“欲情”です。修二のオスが信子のメスに刺激されちゃったわけです。信子はやるときはやります。

信子だとべたくた触るくらいですむのでしょうが、相手がまり子となると、いっそうヒートアップしエスカレートしそうです。よりを戻し、まり子弁当をぺろりと食べ、おかわりといいつつ求めるものはまり子の雌しべ。あやうし、まり子。うーん、よりが戻るのも考え物か。とはいいつつも、このままではまり子がかわいそう。ちゃんと避妊するんだぞ。修二(笑)